さて、日向を出発した神武天皇の一行は、途中宇佐に寄ったあと一度瀬戸内海から関門海峡を抜けて現在の北九州市黒崎あたりとみられる岡水門(おかのみなと)に立ち寄ったとされている。
私見ではこのころ北部九州では稲作の拡りから人口が増大していたが、開墾技術が未発達だったことから農地が不足していた。そのため東に向って若者達が集団を作って東に向うという大きな時代のトレンドがあった。岡水門は推測するに、こうした若者たちが集って情報収集を行う情報拠点であったのではなかろうか。
若者たちはここで東からくる交易者たちがもたらす情報を得、足りない装備を整え、東に向って旅立った。食料や武器も携えれば船こそが彼らの乗物にふさわしいであろう。
自分たちの将来を拓くために岡水門から船を出した若者たちは進路を瀬戸内にとった。
神武一行もまたそんな若者たちのうちの一集団だったのである。