7/28の説明会では「大和の国建国の真実」と題しまして、以下の内容で著書の内容の解説をいたしました。
古代史に関心を持ったきっかけ
⇒高校生の時には神武天皇は架空の人物だと思っていた。しかし、10年ほど前から「本当にそうなのか?」と考えはじめ、自分なりの理解を積み上げてきた。
現在の古代史教育の過ち
⇒戦前の天皇を絶対視する考え方への反発から、左翼思想を土台にした考古学と中国史書だけに基づく「土器と墓と卑弥呼」の歴史を教えている。その「ヤマト王権」像は顔がなく、前方後円墳が主役のなんとも不気味な政体だ。
日本書紀と古事記の関係
⇒なぜ古代の史書として古事記と日本書紀の2冊が存在するのか?についての「牧村仮説」を説明した。
日本書紀は信用出来るか?
⇒
①古代の天皇の異常な高齢記録と結果としての神武天皇即位が紀元前660年という年代のおかしさ。
②日本に文字がない時代の「伝承」に基づいている。
③「天皇支配を正当化するために捏造された歴史書」というレッテル。
これらによって「日本書紀は信用出来ない」とされている。
ところが、
①「三代の都」として日本書紀が記録している纏向(奈良県桜井市)でこの時代に最も大きい遺跡が発見されている。
②埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣に、地方豪族の系図が残され、一族の始祖を「オオヒコ」としている。これは日本書紀が8代天皇の皇子として記録している人物である。
といった事実がある。
これらを見ると、日本書紀のもとになった「伝承」は実は極めて良質な真実を伝えているのではないか?
「春秋2倍暦仮説」という古代史を解くカギ
⇒日本書紀の年代記述のおかしさを説明する仮説として、古代の日本では1年に2つ(春と秋)年齢を増やしたのでは、という春秋2倍暦仮説がある。この説を前提として日本書紀の年表を修正した「新紀年表」を作成した。この新紀年表の年代記述は、考古学の石野博信先生の纏向遺跡の年代推定などと正確に一致することを説明した。
「神武東征」の時代背景
⇒新紀年表では神武天皇の即位は紀元前37年となって、弥生中期に分類される時代である。この時代は、高地性集落、環濠集落という城塞型の集落が全国に広がった戦争の時代だ。この背景となったのが、この時代の希少な稲作適地をめぐる争いであった、という「牧村仮説」を紹介した。
「神武東征」の実像
⇒この時代、先進地帯の北部九州では稲作による生活の安定から人口爆発がおこった。貴重な稲作適地を求めて東に向かって多くの若者が旅立ったのである。そんな中に、より条件に恵まれない日向の地から、村の友たちと語らって故郷を旅立った若者がいた。東にあるという大和という美しい地を目指して出発したのである。彼は知恵と勇気と計画性、人を集める人望と不屈の魂で大和の地で成功を収めた。
そして後世、この若者は神武天皇と呼ばれることになった。
この素晴らしい成功の伝説を子供たちに教えることはたいへん重要である。
纏向三代
⇒神武天皇の建国、と言っても実態は南大和の地方豪族の地位を得たに過ぎない。ではなぜ(出雲でも吉備でも北部九州でもなく)この地方豪族だった大和の国が纏向三代(崇神、垂仁、景行天皇の時代)で日本を治めることになったのか?
この、今まで誰も答えていない古代日本史の大問題について、神道と灌漑による米作り(大和国システム)を教え広めたことによる、という「牧村仮説」を紹介した。
邪馬台国と大和の国
⇒時間がなく邪馬台国問題は詳しく話せなかった。卑弥呼は九州の地方勢力であること、魏志倭人伝は政治的な目的をもって事実を改ざんしていること、景行天皇が九州親征の最期で、277年に福岡の浮羽に至ったころに邪馬台国は大和の国の傘下に入ったであろうことをお話しした。
仁徳天皇の実像
⇒仁徳天皇のエピソードも最近は若者に伝えられていない。古来、有名なエピソードとして民のかまどがある。仁徳天皇が民衆の住まいから炊事の煙が出ていないのを慨嘆して課税を3年間停止したという逸話である。一方、世界一の墓陵である仁徳天皇陵の主としても知られているが、この両者には大きなギャップがある。巨大墓陵は民衆圧迫の象徴とされてきた歴史があるのだ。この大きなギャップを埋め、一人の人間としての仁徳天皇像を描けるだろうか。
ポイントは、
①
仁徳天皇は大土木王であり、難波の堀江(大阪の大川)を掘削し。茨田の堤を築いて淀川を征した。これによって大坂自体を作り出し、広大な田畑を生み出した。そしてこの手法で全国で巨大開発を推進、そのモニュメントが全国の中期の巨大古墳である。
②
高句麗の好太王の南進政策に対抗して応神天皇以来の直轄領である任那、属国の新羅、保護国の百済を指示、支援して韓半島で激闘を演じ、好太王の巨大な圧力を何とかしのぎ切った。
③
仁徳天皇陵は周りの状況から見ても古代の巨大なため池であり、ダムである。仁徳帝は死してなお、民衆の田に水を送り続けたのである。