<護憲派と改憲派>
現行の日本国憲法については「護憲派」と「改憲派」が憲法制定以来ずっと意見対立している。気が遠くなるほどの時間と熱意がこの問題に注がれているが、なかなか「国民合意」に至らない。議論が深まっている様子も見えない。一体どうしてだろうか。
まず「護憲派」であるが、政治勢力では共産党や社民党などのいわゆる左翼、ないし革新勢力がこちら側、対して「改憲派」は自民党が中心だがこれは右派、ないし保守と呼ばれる。革新が守って保守が改めようとするという、言葉と反対である。
一般市民的には「護憲派」は基本的に反戦、ないし平和主義者、「改憲派」は国を守るには戦力も必要、と考えるグループにざっと分けられるだろう。改憲の動機としてアメリカに押し付けられた、という成り立ちに反発して「自主憲法」を制定するという考え方もある。
<理想的な憲法>
私はといえば、当然ながら改憲派に属している。理想としては聖徳太子の17条憲法、および明治維新の五箇条の御誓文を土台とした新しい憲法を創るべきと考えている。しかし、なかなかその理想像が見えてこない(創ってみたいが)。改憲派全般からも残念ながら決定版というべき新憲法案が提出できていないという状況であろう。
理想的な憲法に至るにはまだ時間が必要なのだろうけれども、最近の国際情勢の緊迫化をみると少なくとも自衛隊の合法化は喫緊の課題である。およそ常軌を逸した狂人が最高指導者と呼ばれている不思議な国がすぐそばにある。自衛隊は結構立派な装備と厳しい訓練を積んでいる隊士諸君はそろっているが、なにしろ法的に「戦力」ではないので、自分で作った様々な縛りがあり、どんな無法者が来ても法律をにらみながら防がねばならないという自縄自縛隊である。後ろ手で縛ってボクシングをせよ、とでもいう状況だ。
<日本の劣化の原因は9条>
最近ますます日本人は自分でものを考えなくなっているように思う。マスコミの報道を見ても、事実を述べるだけでその向こうにある原因に踏み鋳込もうとする姿勢がほとんど感じられない。薄っぺらなテロップのような報道が多い。
この原因になっているのが憲法9条だ、と言ったら飛躍しすぎだろうか。しかし私にはどうもそうとしか考えられない。憲法9条が根っこから自分で考える力を日本人から奪っているのである。
日本国憲法前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とし、9条で1項で戦争の放棄、2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と宣言している。
<第9条第3項>
これは極めて無防備で、無抵抗主義そのものの内容である。昭和40年代、私が中学のころこの憲法の言わんとするところは聖書にある「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」という事だ、と教えられた。それを中国、ロシアという侵略がテーゼの国々、北朝鮮という狂人国家、韓国という日本の領土を占領している潜在敵対国などに囲まれた環境で憲法としているのだから、国民としては心配で心配でたまらない状況である、、、はずである。
にもかかわらず、この国では戦後ほとんどの期間、国民は平和を謳歌し、深刻な危機感はほとんど持っていない。マスコミも現実感覚の乏しい太平楽を並べるばかりである。
なぜか?これは明文化されていないが第9条の第3項があるからである。そこにはこう書いてある。
第3項「危なくなったらアメリカにすがる。」
これだけ尽くしているんだから旦那さんは私を見捨てるはずがない。これが石原慎太郎が「日本はアメリカのメカケ」といったことの意味であろう。
こんな自尊心を失った日本人を見たら独立自尊のために命を懸けた維新の英傑たちは何と言うだろう。改憲は喫緊の課題である。
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