2018年7月2日月曜日

ワールドカップ


あす未明にサッカーのワールドカップ決勝トーナメント、日本対ベルギー戦が行われる。当然日本チームを応援したいが、前試合のわだかまりが尾を引いて、夜中まで起きていようとの意気込みが出てこない。
ここに至る1次リーグの最終戦のポーランド戦で日本が「ボール回し」でホイッスルまで時間稼ぎをしたことに賛否の声が上がっている。私はワールドカップでしかサッカーを観ないというレベルでサッカーファンとは言えないが、やはりポーランド戦はテレビで観ていた。ここまでの運にも恵まれての勝ち点4で引き分け以上なら無条件、負けた場合でも同組の別試合の結果次第で決勝進出という有利な条件であることは承知していた。
後半になってポーランドに先制を許した。だが、これまでの2戦では後半に本田を投入してアシストないしゴールを決めているので「また出てくるかな」と期待していたがそんな流れにはならなかった。そうこうしているうちに同組別試合でコロンビアが1点取ってセネガルを1-0でリードしたとの情報が入った。そして現状のままで終われば日本が2位で決勝Tに進出するという。しかし、もう一つの試合も同時進行中でもしセネガルが1点取り返して引分ければ、日本は3位となり予選敗退である。
なかなかややこしい状況だな、と思ったが、西野監督は即断してキャプテン長谷部を投入し、「ボール回し」戦術を採った。この戦術を採ったことをテレビ画面で目の当たりにしたとき何とも言えない強い不快感を私は感じた。
優勢なものが試合終了までの時間、消極的な戦術を採ることは何もサッカーに限らず例えば柔道などでもよく見られることである。しかし今回のケースではコロンビア-セネガル戦という別試合が同時に動いている。劣勢のセネガルは必死になって同点ゴールをもぎ取ろうとしようとしているはずである。試合終了間際に劇的に試合が動くことはさして珍しいことではない。そんな状況の中で攻撃を放棄するという選択があり得るだろうか?一点取れば引き分けで他の試合がどうであろうと決勝進出、すなわちこの時点での勝ちを決定できるのである。(首位通過には勝たねばならいが。)

国家のプライド

私の感覚ではこういう自力で道を開ける可能性があるのに、他者に運命をゆだねてしまうという選択が信じられない。もしセネガルが1点取って結果日本が予選敗退したらどう釈明するのか。通常の評価で言えば「きたない」手を使ってしかも敗退した、という結果を残してどういう顔で日本に戻るのか?指導者が失敗した時に頻発する「想定外」とでもいうのだろうか?自分は勝手だが、Wカップ史上に黒歴史&喜劇として確実に残ることになったかも知れない試合をさせられた選手を気の毒に思う気持ちがないのだろうか?
そもそもオールジャパンの代表として戦っている以上チームはたかがサッカーでも「国家のプライド」を賭けて戦っていることになる。もちろん勝つことは「国家のプライド」を高めることになるが、きたない手を使って勝つことはプライドを損なう行為である。
ポーランドはよく親日国と言われている。そしてその根源に日露戦争があることもよく知られている。日露戦争でのポーランド捕虜の扱いが極めて人道的であったこと、あるいは常にポーランドに圧迫を加えてきたロシアを日本が打ち負かしたことがその根源である。ヨーロッパの人々は一般に日本人よりはるかに歴史意識が強いが、今度の試合を見て普通のポーランドの人々が何と感じたか?「日本人の変質」のようなことが彼らの目に映ったのではないかという懸念を持っている。

サムライジャパン

自分たちはただサッカーをしているだけで「国家のプライド」とは関係がない、というなら逆に一つ苦言を呈したい事がある。「サムライジャパン」という呼称である。男が「サムライ」で女が「なでしこ」というのは現在の世相に対するブラックジョークのような気もするが、「サムライ」は我々の祖先が血と魂で築いた世界ブランドだ。
世界中で大型海賊行為を繰り広げてきたイギリスを中心とする欧米各国が極東で最後に出会った日本で自分たちの祖先の「騎士」に似た人々に会った。その驚きが「サムライ」のブランドとなった。
最近、明治維新に対する「引かれ者の小唄」のような退嬰的否定論が何故か幅を利かしている。しかし「サムライ」の極点としてやはり、外圧をはねのけ、制度疲労でどうしようもなくなっている徳川幕府と身分制度を刷新した主役の武士たちを上げることが至当であるといえよう。(逆にサムライの情けない例として「旗本八万騎」がある。)サムライとは何かを考える上で、欧米と実際に戦争をした「薩英戦争」「下関戦争」を挙げてみよう。
薩英戦争は今となってはただのイギリス艦隊と薩摩藩の一戦闘ぐらいの認識しかないと思うが、日本の歴史が大きく曲がりかねない危険性を持っていた戦争である。中国の阿片戦争と枠組みが酷似しており、対応を誤ればその後欧米各国に主権を盛大に蚕食された清と同様の道を歩む可能性があったし、イギリスには当然清と同様の日本での利権拡大を狙う思惑があった。ところがそうはならなかった。なぜか?
まず薩摩藩が意外に強かったことである。確かに島津藩の砲台は8門破壊され最後はほとんど沈黙した(相手が射程外に出た)。また鹿児島市街が広範囲にロケット砲(大型の花火のようなもの)で焼かれてしまった。しかし、人的被害はわずかで死者は公式には兵士は1名となっている。(正確でない可能性大)これに対してイギリス側は軍艦の大破1、中破2、死者20人でその中には旗艦の艦長も含まれている。しかも何とか面目を保って戦力の優位性を示せたのは実はまだ試験採用中だったアームストロング砲が威力を発揮した(暴発もして問題になっている)からである。これが無ければ、むしろ簡単に撃退された可能性が高い。

タフな交渉者

さらにその後の和平交渉で、薩摩藩が一切妥協せず生麦事件の非を認めなかった。(大名行列にイギリス人が馬で乗り入れたのだから国内法で即時切り捨てが合法)結局、仲介して事を収めようとする幕府からイギリスが要求する賠償金を借用して払い、踏み倒している。
そしてこの借用賠償金を払う条件として、なんと薩摩藩はイギリスからの軍艦購入を求めており、イギリスはこれを認めている。幕府が仲介する場でである。その後薩摩藩はさらにイギリスと急接近し、鹿児島に招いて大宴会をし、大量の留学生を送り込んでいる。
イギリスから見れば、「これは清と同じ方法ではいけない。」と思うのは当然だし、また、これからのこの国を引っ張るのは右往左往ばかりしている事なかれ前例主義の幕府ではなく、「薩摩のような者たち」だろうと判断するのは当然だろう。
ところが、日本攻略の方針転換を検討していたであろう欧米各国にとって願ってもないというか、飛んで火に入りる夏の虫というべき事態が下関戦争である。何か問題を起こして戦争をして、利権を獲得していくとう海賊型の「ビジネスモデル」の彼らにとって、突然向こうから長州藩が砲撃をしてきた、というのはまさに家出娘がゴロツキのところに転がり込んだような話(例えが?)でどうやって料理してやろうか、という事に現場ではなった。(本国政府は薩英戦争に懲り、日本での軍事行動を禁止する訓令を出していたが届く前だった。)実際傑作なことに最初長州藩から攻撃されたのは仏蘭米なのに、「海峡封鎖で多大の損害を受けた」の名目でイギリスが呼びかけ人となり英仏蘭米で17艘の大艦隊を組織して下関に殺到した。薩摩藩に性能では劣ったであろう長州藩の砲台を完膚なきまでに破壊、今度は上陸占領もしている。さー今度こそみんなで長州を切り刻んで分け前を分割しよう、と意気込んでいたと思われるが、そこに現れたのが高杉晋作である。
高杉はまず大変高圧的な態度に出たうえで、賠償金については、「砲撃は幕府の指示によるもので、賠償金がいるというなら幕府に要求しろ。」と突っ張り続けた。戦争に負けてその態度は何だ、と追及されると「負けてなどいない。ご希望とあれば陸戦にて防長30万人士が全員兵士となってお迎えいたそう。」と啖呵を切っている。そしてそれ以外の緊急時の上陸とか薪炭の補給などの軽いものはやすやすと受け入れ、彦島の借款は断固拒否、結果ほぼ無傷のままで交渉をまとめている。
つまりこういう熱い魂を持ちながら有能な実務者でタフな交渉者でもある者たちがアーネストサトウなどのイギリス人に与えた印象が「サムライ」の原像となっていると思う。

長々とれ志士の話をしたが、「サムライ」を名乗るなら幕末の志士や日露戦争の将軍たちが持っていた世界に伍す気位、自力で前に進んで道を開く気概を学んでほしいものである。西野監督には一省を促したい。

がんばれニッポン。

2018年6月20日水曜日

古代史に珍論奇論が発生する10の理由

JCalによる推定は垂仁天皇時代とさらに正確に一致

 纏向遺跡の桃の種についての炭素14の測定による年代推定で出土した桃の種の年代がAD135年-230年と推定されたことが報じられ、私の2倍暦仮説の傍証となると喜んでいた。ところが、今回発表の元となっている纏向学研究センターの研究紀要6(http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-6.pdf)を見てみたところ、さらに喜ばしい事実を見つけることになった。
年代測定者のうちの一人の近藤玲氏の資料を見ると、炭素年代推定のモノサシになる炭素14の残存量の平均レンジとして国際標準のIntCalとあわせて日本の試料で推定したJCalのグラフも書き込まれていることに気が付いた。今回の推定はIntCalを用いて行われていてJCalについてはなぜか言及がないが、地球上の各地域で炭素14の濃度に偏差があることから最近はJCalによる推定の方が重視されている傾向があるという。(ただしこの事実はこの推定法がまだ「生煮え」の手法であることも示している。)
 で、ともかく下記のグラフから勝手にJCalを物差しに年代を読み取ってみるとですな、桃核最下層という試料ではだいたい210年-248年、桃核上層では237年-252年の推定となる。ところが、前回述べたように私の2倍暦仮説による推定では第11代垂仁天皇のご在位は214年―262年となっていて2つの試料の推定年代はほとんど2倍暦の垂仁天皇の在位時代に収まるのである。まことに喜ばしいことである。


纒向学研究センター研究紀要、「纒向学研究」第6号より引用

 私の2倍暦による年代推定は、日本書紀が通常の年代記述になったと見られる第20代安康天皇の即位年である454年以前の天皇の在位年数をただ半分にして修正したものに過ぎない。2倍暦があったとしてそれを通常の実年代にもどすにはごく当たり前のアプローチで独創性など誇るものでは無い。(第9代開化天皇以前は古事記の年齢で修正した。)しかしこの単純な推定と纒向遺跡の炭素14による年代推定がほぼ正確に一致したという事実は、手前みそながら百鬼夜行の日本の古代史に明るい光を照らしたことになると自尊している。(なお、纏向遺跡の最初の発掘者である石野信博先生も、もともとこの遺跡が機能したのは西暦180年から350年ごろまでという見立てをされている。)

 とはいいながら、私がいくら自尊するなどと言って自己満足に浸っていても、古代史を巡って、よく言えば百家争鳴、シニカルに言えば珍論奇論の百鬼夜行という状態が収まるとも思えない。なにせ本居宣長、新井白石以降300年も議論が続いているのである。そしてインターネットでの情報発信が行われるようになってさらに発言者は激増し、議論百出どころか議論万出とでもいうような状況となっている。

どうしてここまで様々な議論が出てくるのか?

 そこで、そもそもどうしてこんなに議論がたくさん出てくるのか?その背景について一度考えてみたいと思う。まず、様々な議論が出てきやすい前提状況というものが日本の建国の時期の古代史にはあるように思われる。要約すると次の2つではないだろうか?

①日本の古代にはもともと残っている文字情報が極めて少なく、結果基礎資料に当たることが他の時代、ないし文字情報の多い地域の歴史に比べても容易である。

 極端に言えば邪馬台国論争に参加するには「魏志倭人伝」2000(の翻訳)だけ読んで、何か「自説」を思いつけば出来ないことはない。他の中国史書はほとんど断片しか日本について記述がないし、「古事記」、「日本書紀」についても魏志倭人伝などとは比較にならないほど内容が豊かだが、かと言って邪馬台国の時代あたりまでは読むのに苦労するほどの分量ではない。また、「信頼できない資料」と切り捨ててもそう非難もされない。つまり基礎資料が少ないことで、議論に参加するハードルが非常に低いのである。

②古代史の専門家と称していても、実情は考古学、ある短い時代の文献学などの特定分野の専門家となっていて、全体を総合して説明できる重量級の古代史の専門家が最近は少なくなっている。

 私は京大の理系の学生だったが教養課程で上田正昭先生の古代史の講義を受けた。400人位入る大講義室が満員になる人気講座だった。そのころ東大には文学部長として井上光貞先生がおられた。井上先生はそのころ1番の日本古代史の権威者であっただろう。お二人は何度か論戦されたようだが、共通しているのは文献学、考古学、民俗学、比較文化論などの多面的な情報から、日本の古代はどんな姿だったのかを総合的に再構成しようとする姿勢があったことである。上田先生の講義では折口信夫に対する尊敬と戸惑いの入り混じった複雑な感想を何度もお聞きしたものである。
古代史学の歴史にそんなに詳しいわけではないが、もっと時代をさかのぼって津田左右吉(歴史上の人物として敬称を略す)や三品彰英はさらに総合的だし、明治の那珂通世や久米邦武はさらにそうであるという印象を持っている。ただ歴史が下るほど有利になるのは主に考古学の発掘の結果が積みあがっていくことで、過去の事実の証拠が蓄積されることである。

 しかし、井上、上田先生以降、どうも権威といえる存在がいなくなったように思う。権威とは多くの意見を飲み込んだうえで一段高いところからの見方を提供でき、多数がそれに従う人とでも定義するとして、そういう人が見当たらなくなっている。高いところから見ている権威者がいなければ、少々荒っぽい論建も述べることに躊躇がなくなる。家庭に怖いオヤジがいなくなったようなものである。これは必ずしも古代史に限らない。たとえば大震災の後、地震や原子力についての解説が多くの「専門家」によってなされたが、局所にこだわって全体の見えない、聞いている方が恥ずかしくなるような内容が多かった。これも専門の分化が進みすぎたせいであろう。

 そしてこの2つの背景が珍論奇論が澎湃として湧き上がる土壌を形成している。だがそんな「豊かな」土壌でも咲く花々は多様である。多様な珍論奇論にはその論が導かれる道すじとして以下の10ほどの要因があると見ている。

古代史で珍論奇論を生む10の理由

1.真理を探求するはずの学問の世界に政治的な思惑を持ち込んで結論ありきの立論をする。
2.中国史書を宝典のごとく信奉し、作者が神か超人ででもあるかのような解釈をする。
3.古事記、日本書紀が成立した時代の大和朝廷を悪の権化のように妄想し、様々な陰謀論を展開する。
4.日本書紀の編集者は古代史の全ての事を知っていたという無理な仮説をまず前提としそれから様々な邪推をする。
5.古事記、日本書紀に語られた神話を現実の歴史と見なして場所や人物を比定しようとする。
6.後世にたまたま別々の記録に残った人物の中から、「実はこの二人は同一人物ではないか?」と言って恣意的に結び付ける。
7.大胆な仮説ではあるが根拠に乏しい論を大胆に展開し、さらに根拠の弱い推論の階層を重ねる。(話としては面白い。)
8.ご当地ソングでもあるかのように、地元愛を推論のベースに置いて我田引水する。
9.大きな組織・勢力が成立するとき、当然そこに存在する組織の成立の背景や理由について、いつの時代にでも共通する常識をわきまえないで議論を走らせる。
10.情報伝達や人の移動、人口密度などのその時代の土台となる前提条件についてその時代に当てはまる常識的な想定をせず、後世の社会のイメージと混同した状態で推論する。


 こうした議論で百家争鳴となるのは活気があるといえばいえるが、混乱状態であるとも見て取れる。そして上記のようなバイアスは真実に至るには逆の作用をもたらしているであろう。事が我が国の建国に関わることであるだけに、あまり荒唐無稽な話はこのあたりでそろそろ淘汰されるべきであるとも思う。ところが実際は結構それなりの立場の人が首をかしげるような話をされているケースも多い。

 どう考えても悪趣味としか言えないが、次回から上記の10の理由が生み出している珍論奇論を少し紹介してみよう。

2018年5月17日木曜日

纒向遺跡の桃の種の年代推定について

 纒向遺跡から出た桃の種の年代推定の結果が公表された。

 発表によるとこの種は西暦135年から230年の間のものである可能性が高いとの事である。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180514-00000049-asahi-soci、など)
 この結果は卑弥呼が実在したとみられる200年代前半と重なる部分があり、そこから纒向が邪馬台国であった可能性が高まった、と複数のマスコミが報じている。しかしこの結論は、これまでも関西の研究機関などが中心になって行ってきた「近畿説運動」の一環というしかない。

 確かに今回の推定(どこまで信頼できるかはなお?だが)は、これまでの有力諸説のうちの一つに決定的な引導を渡した点に大きな意味はある。これまでの邪馬台国論争では、有力な3説として、
①邪馬台国九州説 → のち近畿勢に吸収される
②邪馬台国近畿説 → のち大和朝廷となる
③邪馬台国東遷説 → 卑弥呼の時代、九州にあった邪馬台国がのち近畿に遷って大和朝廷になる
があった。そして、九州説の中では①よりむしろ③の方が支持者が多かったように思う。

 しかし今回の推定を正しいとするなら、卑弥呼の時代にすでに纒向はあったことになるから③は成り立ちようがない。よって邪馬台国東遷説なる、ロマンにはあふれるが実態のさっぱり見えない空想的仮説は今後消滅せざるを得ないことになる。
 この結果、邪馬台国論争から一つの主要メンバーが消え、残る有力説は①②の純粋九州説と純粋近畿説の2つとなった。そして今回の推定はこの両者の優劣に対してはニュートラルであろう。

 ところが、手前みそながらこれまで述べてきた私の推論に対しては今回の結果は大変強力な支援材料となってくれているのである。私は以前から述べている通り、邪馬台国はあったとすれば①の九州説が至当で、かつその後消滅した地方勢力に過ぎないと考えている。拠って立つところとしては真実の書と呼ぶにふさわしい日本書紀を高しとし、政治的作為の産物である魏志倭人伝を低く見る視点に立脚している。
 実際、日本書紀は編纂時の8世紀には既に跡形もなかったであろう纒向に「3代の天皇の都があった。」と明確に述べているのである。ただし日本書紀は日本の古い時代にあった2倍暦年齢をそのまま記述したために一見荒唐無稽な年代観となっている難点があり、これを修正しなければ実相は見えてこなない。
 この修正を私なりに行って作成したものを「新紀年表」と自称しているが、この年表では纒向に都した崇神、垂仁、景行天皇の治世は西暦180年から293年となる。




 この年代観と日本書紀の記述内容、纒向の大型建物の発掘結果を突き合せれば最大の建物Dは垂仁天皇の居館であり建物Cこそは伊勢神宮の祖型であとの仮説が成り立つ、と考えていたわけであるが、今回の推定結果はこの仮説を強く援護してくれている。
 すなわち今回の桃の実は建物Dのそばから発見されたものである。私の説では垂仁天皇の居館のそばという事になる。新紀年表では垂仁天皇の治世は214年から263年であり、推定の時期との重なりを持っている。桃のみの年代推定結果を以てこの建物Dを垂仁天皇の居館とさらに自信を持って主張することができるのである。

 なお、この桃の実に宗教的な意味を付会しシナから渡来した西王母思想と結びつけるような珍説もまま見られるが、妄想の一種であろう。そばにある伊勢神宮の祖型には目もくれず後世に何の跡形もない宗教儀礼があったとするような主張は荒唐無稽としか言いようがない。貝塚のようなもので、「垂仁天皇はモモがお好きであったのだろう。」ぐらいの見方の方がはるかにリアリティのある推定ではなかろうか。