2018年6月20日水曜日

古代史に珍論奇論が発生する10の理由

JCalによる推定は垂仁天皇時代とさらに正確に一致

 纏向遺跡の桃の種についての炭素14の測定による年代推定で出土した桃の種の年代がAD135年-230年と推定されたことが報じられ、私の2倍暦仮説の傍証となると喜んでいた。ところが、今回発表の元となっている纏向学研究センターの研究紀要6(http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-6.pdf)を見てみたところ、さらに喜ばしい事実を見つけることになった。
年代測定者のうちの一人の近藤玲氏の資料を見ると、炭素年代推定のモノサシになる炭素14の残存量の平均レンジとして国際標準のIntCalとあわせて日本の試料で推定したJCalのグラフも書き込まれていることに気が付いた。今回の推定はIntCalを用いて行われていてJCalについてはなぜか言及がないが、地球上の各地域で炭素14の濃度に偏差があることから最近はJCalによる推定の方が重視されている傾向があるという。(ただしこの事実はこの推定法がまだ「生煮え」の手法であることも示している。)
 で、ともかく下記のグラフから勝手にJCalを物差しに年代を読み取ってみるとですな、桃核最下層という試料ではだいたい210年-248年、桃核上層では237年-252年の推定となる。ところが、前回述べたように私の2倍暦仮説による推定では第11代垂仁天皇のご在位は214年―262年となっていて2つの試料の推定年代はほとんど2倍暦の垂仁天皇の在位時代に収まるのである。まことに喜ばしいことである。


纒向学研究センター研究紀要、「纒向学研究」第6号より引用

 私の2倍暦による年代推定は、日本書紀が通常の年代記述になったと見られる第20代安康天皇の即位年である454年以前の天皇の在位年数をただ半分にして修正したものに過ぎない。2倍暦があったとしてそれを通常の実年代にもどすにはごく当たり前のアプローチで独創性など誇るものでは無い。(第9代開化天皇以前は古事記の年齢で修正した。)しかしこの単純な推定と纒向遺跡の炭素14による年代推定がほぼ正確に一致したという事実は、手前みそながら百鬼夜行の日本の古代史に明るい光を照らしたことになると自尊している。(なお、纏向遺跡の最初の発掘者である石野信博先生も、もともとこの遺跡が機能したのは西暦180年から350年ごろまでという見立てをされている。)

 とはいいながら、私がいくら自尊するなどと言って自己満足に浸っていても、古代史を巡って、よく言えば百家争鳴、シニカルに言えば珍論奇論の百鬼夜行という状態が収まるとも思えない。なにせ本居宣長、新井白石以降300年も議論が続いているのである。そしてインターネットでの情報発信が行われるようになってさらに発言者は激増し、議論百出どころか議論万出とでもいうような状況となっている。

どうしてここまで様々な議論が出てくるのか?

 そこで、そもそもどうしてこんなに議論がたくさん出てくるのか?その背景について一度考えてみたいと思う。まず、様々な議論が出てきやすい前提状況というものが日本の建国の時期の古代史にはあるように思われる。要約すると次の2つではないだろうか?

①日本の古代にはもともと残っている文字情報が極めて少なく、結果基礎資料に当たることが他の時代、ないし文字情報の多い地域の歴史に比べても容易である。

 極端に言えば邪馬台国論争に参加するには「魏志倭人伝」2000(の翻訳)だけ読んで、何か「自説」を思いつけば出来ないことはない。他の中国史書はほとんど断片しか日本について記述がないし、「古事記」、「日本書紀」についても魏志倭人伝などとは比較にならないほど内容が豊かだが、かと言って邪馬台国の時代あたりまでは読むのに苦労するほどの分量ではない。また、「信頼できない資料」と切り捨ててもそう非難もされない。つまり基礎資料が少ないことで、議論に参加するハードルが非常に低いのである。

②古代史の専門家と称していても、実情は考古学、ある短い時代の文献学などの特定分野の専門家となっていて、全体を総合して説明できる重量級の古代史の専門家が最近は少なくなっている。

 私は京大の理系の学生だったが教養課程で上田正昭先生の古代史の講義を受けた。400人位入る大講義室が満員になる人気講座だった。そのころ東大には文学部長として井上光貞先生がおられた。井上先生はそのころ1番の日本古代史の権威者であっただろう。お二人は何度か論戦されたようだが、共通しているのは文献学、考古学、民俗学、比較文化論などの多面的な情報から、日本の古代はどんな姿だったのかを総合的に再構成しようとする姿勢があったことである。上田先生の講義では折口信夫に対する尊敬と戸惑いの入り混じった複雑な感想を何度もお聞きしたものである。
古代史学の歴史にそんなに詳しいわけではないが、もっと時代をさかのぼって津田左右吉(歴史上の人物として敬称を略す)や三品彰英はさらに総合的だし、明治の那珂通世や久米邦武はさらにそうであるという印象を持っている。ただ歴史が下るほど有利になるのは主に考古学の発掘の結果が積みあがっていくことで、過去の事実の証拠が蓄積されることである。

 しかし、井上、上田先生以降、どうも権威といえる存在がいなくなったように思う。権威とは多くの意見を飲み込んだうえで一段高いところからの見方を提供でき、多数がそれに従う人とでも定義するとして、そういう人が見当たらなくなっている。高いところから見ている権威者がいなければ、少々荒っぽい論建も述べることに躊躇がなくなる。家庭に怖いオヤジがいなくなったようなものである。これは必ずしも古代史に限らない。たとえば大震災の後、地震や原子力についての解説が多くの「専門家」によってなされたが、局所にこだわって全体の見えない、聞いている方が恥ずかしくなるような内容が多かった。これも専門の分化が進みすぎたせいであろう。

 そしてこの2つの背景が珍論奇論が澎湃として湧き上がる土壌を形成している。だがそんな「豊かな」土壌でも咲く花々は多様である。多様な珍論奇論にはその論が導かれる道すじとして以下の10ほどの要因があると見ている。

古代史で珍論奇論を生む10の理由

1.真理を探求するはずの学問の世界に政治的な思惑を持ち込んで結論ありきの立論をする。
2.中国史書を宝典のごとく信奉し、作者が神か超人ででもあるかのような解釈をする。
3.古事記、日本書紀が成立した時代の大和朝廷を悪の権化のように妄想し、様々な陰謀論を展開する。
4.日本書紀の編集者は古代史の全ての事を知っていたという無理な仮説をまず前提としそれから様々な邪推をする。
5.古事記、日本書紀に語られた神話を現実の歴史と見なして場所や人物を比定しようとする。
6.後世にたまたま別々の記録に残った人物の中から、「実はこの二人は同一人物ではないか?」と言って恣意的に結び付ける。
7.大胆な仮説ではあるが根拠に乏しい論を大胆に展開し、さらに根拠の弱い推論の階層を重ねる。(話としては面白い。)
8.ご当地ソングでもあるかのように、地元愛を推論のベースに置いて我田引水する。
9.大きな組織・勢力が成立するとき、当然そこに存在する組織の成立の背景や理由について、いつの時代にでも共通する常識をわきまえないで議論を走らせる。
10.情報伝達や人の移動、人口密度などのその時代の土台となる前提条件についてその時代に当てはまる常識的な想定をせず、後世の社会のイメージと混同した状態で推論する。


 こうした議論で百家争鳴となるのは活気があるといえばいえるが、混乱状態であるとも見て取れる。そして上記のようなバイアスは真実に至るには逆の作用をもたらしているであろう。事が我が国の建国に関わることであるだけに、あまり荒唐無稽な話はこのあたりでそろそろ淘汰されるべきであるとも思う。ところが実際は結構それなりの立場の人が首をかしげるような話をされているケースも多い。

 どう考えても悪趣味としか言えないが、次回から上記の10の理由が生み出している珍論奇論を少し紹介してみよう。

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