纒向遺跡から出た桃の種の年代推定の結果が公表された。
発表によるとこの種は西暦135年から230年の間のものである可能性が高いとの事である。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180514-00000049-asahi-soci、など)
この結果は卑弥呼が実在したとみられる200年代前半と重なる部分があり、そこから纒向が邪馬台国であった可能性が高まった、と複数のマスコミが報じている。しかしこの結論は、これまでも関西の研究機関などが中心になって行ってきた「近畿説運動」の一環というしかない。
確かに今回の推定(どこまで信頼できるかはなお?だが)は、これまでの有力諸説のうちの一つに決定的な引導を渡した点に大きな意味はある。これまでの邪馬台国論争では、有力な3説として、
①邪馬台国九州説 → のち近畿勢に吸収される
②邪馬台国近畿説 → のち大和朝廷となる
③邪馬台国東遷説 → 卑弥呼の時代、九州にあった邪馬台国がのち近畿に遷って大和朝廷になる
があった。そして、九州説の中では①よりむしろ③の方が支持者が多かったように思う。
しかし今回の推定を正しいとするなら、卑弥呼の時代にすでに纒向はあったことになるから③は成り立ちようがない。よって邪馬台国東遷説なる、ロマンにはあふれるが実態のさっぱり見えない空想的仮説は今後消滅せざるを得ないことになる。
この結果、邪馬台国論争から一つの主要メンバーが消え、残る有力説は①②の純粋九州説と純粋近畿説の2つとなった。そして今回の推定はこの両者の優劣に対してはニュートラルであろう。
ところが、手前みそながらこれまで述べてきた私の推論に対しては今回の結果は大変強力な支援材料となってくれているのである。私は以前から述べている通り、邪馬台国はあったとすれば①の九州説が至当で、かつその後消滅した地方勢力に過ぎないと考えている。拠って立つところとしては真実の書と呼ぶにふさわしい日本書紀を高しとし、政治的作為の産物である魏志倭人伝を低く見る視点に立脚している。
実際、日本書紀は編纂時の8世紀には既に跡形もなかったであろう纒向に「3代の天皇の都があった。」と明確に述べているのである。ただし日本書紀は日本の古い時代にあった2倍暦年齢をそのまま記述したために一見荒唐無稽な年代観となっている難点があり、これを修正しなければ実相は見えてこなない。
この修正を私なりに行って作成したものを「新紀年表」と自称しているが、この年表では纒向に都した崇神、垂仁、景行天皇の治世は西暦180年から293年となる。
この年代観と日本書紀の記述内容、纒向の大型建物の発掘結果を突き合せれば最大の建物Dは垂仁天皇の居館であり建物Cこそは伊勢神宮の祖型であるとの仮説が成り立つ、と考えていたわけであるが、今回の推定結果はこの仮説を強く援護してくれている。
すなわち今回の桃の実は建物Dのそばから発見されたものである。私の説では垂仁天皇の居館のそばという事になる。新紀年表では垂仁天皇の治世は214年から263年であり、推定の時期との重なりを持っている。桃のみの年代推定結果を以てこの建物Dを垂仁天皇の居館とさらに自信を持って主張することができるのである。
なお、この桃の実に宗教的な意味を付会しシナから渡来した西王母思想と結びつけるような珍説もまま見られるが、妄想の一種であろう。そばにある伊勢神宮の祖型には目もくれず後世に何の跡形もない宗教儀礼があったとするような主張は荒唐無稽としか言いようがない。貝塚のようなもので、「垂仁天皇はモモがお好きであったのだろう。」ぐらいの見方の方がはるかにリアリティのある推定ではなかろうか。
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