2017年5月23日火曜日

女性宮家問題と皇統 2

 よほど右翼的な人でも、「女性天皇」は駄目だと主張する人は少ないが、それが女系天皇に繋がるから反対だ、という意見は多い。
これは、今の時代に何を言っているのか、との意見も当然あるが男系天皇の歴史を守る側から言えば神武天皇以来125代、2000年超にわたって守られてきた伝統なんだから何としても守りたい、と考えるであろう。私もそう考える。

 そもそも、男女平等という理念も、ここ100年以内に広まった流行思想であって、100年後にはどうなっているかほとんど予測不能であろう。そういう一時の新興宗教のドグマで、長く続いてきた伝統を壊すことは、後世から見れば文化的な蛮行と見られることもありえよう。(明治の廃仏、タリバンの文化遺産破壊など)あまり浮ついてはいけない。

 しかし、である。もし男系が絶えてしまったらどうするのか?現実に悠仁様に男のお子様ができなければ現状ではあと数十年で男子皇族はいなくなってしまうわけである。どうするのか?

 ここで一つの先例となるのが第26代継体天皇のケースである。(在位507年-531年)

 第25代武烈天皇は日本書紀によれば若くして即位した暴虐の天皇で、妊婦の腹を裂いたり、木に登らせた人間を弓矢で射殺したりした。しかも、乱行の果てに18歳で亡くなり、跡継ぎを残さなかった。

 困り果てた時の大連、大件金村は八方手を尽くして応神天皇の5世である「オトドの君」を見つけ出し福井から紹いた。そして武烈帝の姉である手白香皇女をめあわせた。(間に出来たのが欽明天皇である)

 この例を先例とすれば、たとえば愛子内親王に数代前の天皇の男系の血を引く男性を迎えて入り婿とし、宮家とすればよいであろう。愛子様が男子を生まれれば皇位を継がれることに何ら問題はない。

 出でよ、現代の大件金村!!

2017年5月19日金曜日

女性宮家問題と皇統

 秋篠宮眞子様の婚約報道が流れ、お祝いの声がテレビやネットで多数流れている。おめでたいことである。

 しかし、この報道と同時に議論がまた盛り上がってきているのが、女性宮家ないし、皇位の継承の問題だ。
今の皇室には今上陛下の直系の孫の世代としては男子は悠仁親王殿下のみで、内親王(天皇の直系で2親等以内の女性皇族)は愛子様と眞子様、佳子様しかおられない。よくぞ悠仁様がお生まれになったと言えるが、男系で繁いてきた皇室の歴史の前途に大きな不安があることは事実である。

 そこで、女性宮家を創設しよう、という議論が出てくるわけだが、この意見は女系天皇を認めるという意味となる。女性天皇と女系天皇という紛らわしい言葉があり混乱する人もいると思う。女性天皇とは、まさに女性の天皇ということで、歴史上も推古天皇や持統天皇など8人の女性天皇は存在している。 これに対して女系天皇とは何かという問題だが、これは父の父の父の父の…と父の祖先をたどっても、初代神武天皇に至らない、どこかで母系を遡らないと初代に行きつかないケースの天皇という意味になる。

 もし、現皇太子の後に愛子内親王が天皇となられた場合、これは(当然)女性天皇ではあるが女系天皇ではない。父をたどれば初代にたどり着くからである。ところが、そこで愛子内親王が今回の眞子様のように民間の男性と結婚されて男の子が生まれた場合、この親王は父方をさかのぼっても神武天皇には行きつかない。もしこの親王が天皇となった時は、これは男性天皇だが女系天皇になるのである。

2017年5月3日水曜日

憲法記念日に思う事

本日は憲法記念日である。安倍首相は今日2020年に9条含め憲法改正したいと公表した、と報道されている。これは古代史ではなく現代の問題であるが、この機会に私の意見を述べておこう。

<護憲派と改憲派>
現行の日本国憲法については「護憲派」と「改憲派」が憲法制定以来ずっと意見対立している。気が遠くなるほどの時間と熱意がこの問題に注がれているが、なかなか「国民合意」に至らない。議論が深まっている様子も見えない。一体どうしてだろうか。

まず「護憲派」であるが、政治勢力では共産党や社民党などのいわゆる左翼、ないし革新勢力がこちら側、対して「改憲派」は自民党が中心だがこれは右派、ないし保守と呼ばれる。革新が守って保守が改めようとするという、言葉と反対である。

一般市民的には「護憲派」は基本的に反戦、ないし平和主義者、「改憲派」は国を守るには戦力も必要、と考えるグループにざっと分けられるだろう。改憲の動機としてアメリカに押し付けられた、という成り立ちに反発して「自主憲法」を制定するという考え方もある。

<理想的な憲法>
私はといえば、当然ながら改憲派に属している。理想としては聖徳太子の17条憲法、および明治維新の五箇条の御誓文を土台とした新しい憲法を創るべきと考えている。しかし、なかなかその理想像が見えてこない(創ってみたいが)。改憲派全般からも残念ながら決定版というべき新憲法案が提出できていないという状況であろう。

理想的な憲法に至るにはまだ時間が必要なのだろうけれども、最近の国際情勢の緊迫化をみると少なくとも自衛隊の合法化は喫緊の課題である。およそ常軌を逸した狂人が最高指導者と呼ばれている不思議な国がすぐそばにある。自衛隊は結構立派な装備と厳しい訓練を積んでいる隊士諸君はそろっているが、なにしろ法的に「戦力」ではないので、自分で作った様々な縛りがあり、どんな無法者が来ても法律をにらみながら防がねばならないという自縄自縛隊である。後ろ手で縛ってボクシングをせよ、とでもいう状況だ。

<日本の劣化の原因は9条>
最近ますます日本人は自分でものを考えなくなっているように思う。マスコミの報道を見ても、事実を述べるだけでその向こうにある原因に踏み鋳込もうとする姿勢がほとんど感じられない。薄っぺらなテロップのような報道が多い。

この原因になっているのが憲法9条だ、と言ったら飛躍しすぎだろうか。しかし私にはどうもそうとしか考えられない。憲法9条が根っこから自分で考える力を日本人から奪っているのである。

日本国憲法前文では、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」とし、9条で1項で戦争の放棄、2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と宣言している。

<第9条第3項>
これは極めて無防備で、無抵抗主義そのものの内容である。昭和40年代、私が中学のころこの憲法の言わんとするところは聖書にある「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」という事だ、と教えられた。それを中国、ロシアという侵略がテーゼの国々、北朝鮮という狂人国家、韓国という日本の領土を占領している潜在敵対国などに囲まれた環境で憲法としているのだから、国民としては心配で心配でたまらない状況である、、、はずである。

にもかかわらず、この国では戦後ほとんどの期間、国民は平和を謳歌し、深刻な危機感はほとんど持っていない。マスコミも現実感覚の乏しい太平楽を並べるばかりである。

なぜか?これは明文化されていないが第9条の第3項があるからである。そこにはこう書いてある。

第3項「危なくなったらアメリカにすがる。」

これだけ尽くしているんだから旦那さんは私を見捨てるはずがない。これが石原慎太郎が「日本はアメリカのメカケ」といったことの意味であろう。

こんな自尊心を失った日本人を見たら独立自尊のために命を懸けた維新の英傑たちは何と言うだろう。改憲は喫緊の課題である。

2017年2月22日水曜日

神武天皇 8

 さて、日向を出発した神武天皇の一行は、途中宇佐に寄ったあと一度瀬戸内海から関門海峡を抜けて現在の北九州市黒崎あたりとみられる岡水門(おかのみなと)に立ち寄ったとされている。

 私見ではこのころ北部九州では稲作の拡りから人口が増大していたが、開墾技術が未発達だったことから農地が不足していた。そのため東に向って若者達が集団を作って東に向うという大きな時代のトレンドがあった。岡水門は推測するに、こうした若者たちが集って情報収集を行う情報拠点であったのではなかろうか。

 若者たちはここで東からくる交易者たちがもたらす情報を得、足りない装備を整え、東に向って旅立った。食料や武器も携えれば船こそが彼らの乗物にふさわしいであろう。

 自分たちの将来を拓くために岡水門から船を出した若者たちは進路を瀬戸内にとった。

 神武一行もまたそんな若者たちのうちの一集団だったのである。

2016年12月1日木曜日

「古代史シンポジウム」への疑義 2

<魏志倭人伝とは>

 今日の日本の古代史関連の学会や論壇で、「魏志倭人伝」は格別の扱いを受けている。なにしろ卑弥呼問題が「古代史最大の謎」とされているわけだから、その卑弥呼のことを書いている唯一の一次資料である魏志倭人伝が尊重されるのも当然かも知れない。

 しかし、やや滑稽なことであるが、実際は魏志倭人伝は実際は魏志、ないし、それを含む「三国志」全体のごくごく一部に過ぎない。そのごく一部の文章を、場合によってはそれだけを精読に精読を重ね、一字一句の意味を万言を量して解釈を行ったり、字句の向こうにある意味を解釈しようとして(空虚な?)時間を費やしているのである。

 あくまで、魏志倭人伝は、魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻、全65巻のうちのわずか一巻である魏志東夷伝にあるもので、さらにその東夷伝の中にある高句麗伝や韓伝、など9つの章がある中の倭人の章のことなのである。加えて「東夷」という中華から見た蛮人(東夷、西戎、南蛮、北秋)のことを書いた唯一の巻の最後に書かれたものである。

 いわば、雑誌の「巻末閉じ込み付録」に過ぎない。


2016年11月17日木曜日

森下 豊 橿原市長

 神武天皇を祀る橿原神宮と畝傍御陵は奈良の橿原市にある。神武天皇が東征ののち、初代天皇に即位し、皇居を置かれた地と伝えられている。私の卒業した畝傍高校もこの市内だ。

 こういったご縁もあり、本を出版して少しした頃、市長の森下豊さんに手紙をそえて拙著を郵送して謹呈差し上げた。少し時間も経って、そんなことも忘れかけていた先週のこと、秘書の方から電話があって「来週そちらに市長が行く予定なんですが、お会いできますか?」とのことである。「もちろん、喜んで」とお答えしたところ、今秋お会いする手筈となり、火曜日にご訪問頂いた。

 私とほぼ同世代だが、3期日を務めておられ、ハツラツとして油が乗っている印象である。橿原市政のこともいろいろと話して頂いたが、来年には八木駅に市庁舎兼上層階がホテルというパイオニア的な建物がたつという。ちょっと驚いたのはそれが10階建てだが、奈良では最も高い建物になるそうである。景観から高い建物は規制されているのである。

 市長は有難いことに拙著を読了していただいたそうで、かつあちこちで話のタネとして話してくれているというのである。やはり、地元として神武天皇への思いは強くもっておられ、今後も日本の発祥の地として様々な取り組みをしていきたいとおっしゃっていた。

 本を書いたことで、こんなご縁も広がるものと、改めて納得した次第である。せっかくのご縁を大切にしたいと思う。


2016年11月14日月曜日

「古代史シンポジウム」への疑義 1

 拙著『よみがえる神武天皇』では、日本書紀を春秋2倍暦仮説で読み解くことで紀年を正し、その年表(新紀年表)に考古学の成果を重ねていくことで、大和の国が成立する姿を描きだした。

 しかし残念ながら(当然でもあるが)依然として古代史学会や歴史教育では私が「土器と墓と卑弥呼」の古代史と呼ぶ状況が続いている。

 今回まさにタイムリーというべきか、角川文化振興財団から古代史シンポジウム「発見、検証、日本の古代」という昨年開催されたシンポジウムをまとめた本が出版された。

  内容を見てみると、基本は2本柱で「魏志倭人伝」の解釈の深化と考古学の成果を基にし、その柱の上に古代史像を但み立てようとしている、まさに「土器と墓と卑弥呼」の古代史である。

 よい機会であるから、この場所でこの本の内容を採り上げ徹底的な批判を加えてみようと思う。

乞う、ご期待!!!