2017年2月22日水曜日

神武天皇 8

 さて、日向を出発した神武天皇の一行は、途中宇佐に寄ったあと一度瀬戸内海から関門海峡を抜けて現在の北九州市黒崎あたりとみられる岡水門(おかのみなと)に立ち寄ったとされている。

 私見ではこのころ北部九州では稲作の拡りから人口が増大していたが、開墾技術が未発達だったことから農地が不足していた。そのため東に向って若者達が集団を作って東に向うという大きな時代のトレンドがあった。岡水門は推測するに、こうした若者たちが集って情報収集を行う情報拠点であったのではなかろうか。

 若者たちはここで東からくる交易者たちがもたらす情報を得、足りない装備を整え、東に向って旅立った。食料や武器も携えれば船こそが彼らの乗物にふさわしいであろう。

 自分たちの将来を拓くために岡水門から船を出した若者たちは進路を瀬戸内にとった。

 神武一行もまたそんな若者たちのうちの一集団だったのである。

2016年12月1日木曜日

「古代史シンポジウム」への疑義 2

<魏志倭人伝とは>

 今日の日本の古代史関連の学会や論壇で、「魏志倭人伝」は格別の扱いを受けている。なにしろ卑弥呼問題が「古代史最大の謎」とされているわけだから、その卑弥呼のことを書いている唯一の一次資料である魏志倭人伝が尊重されるのも当然かも知れない。

 しかし、やや滑稽なことであるが、実際は魏志倭人伝は実際は魏志、ないし、それを含む「三国志」全体のごくごく一部に過ぎない。そのごく一部の文章を、場合によってはそれだけを精読に精読を重ね、一字一句の意味を万言を量して解釈を行ったり、字句の向こうにある意味を解釈しようとして(空虚な?)時間を費やしているのである。

 あくまで、魏志倭人伝は、魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻、全65巻のうちのわずか一巻である魏志東夷伝にあるもので、さらにその東夷伝の中にある高句麗伝や韓伝、など9つの章がある中の倭人の章のことなのである。加えて「東夷」という中華から見た蛮人(東夷、西戎、南蛮、北秋)のことを書いた唯一の巻の最後に書かれたものである。

 いわば、雑誌の「巻末閉じ込み付録」に過ぎない。


2016年11月17日木曜日

森下 豊 橿原市長

 神武天皇を祀る橿原神宮と畝傍御陵は奈良の橿原市にある。神武天皇が東征ののち、初代天皇に即位し、皇居を置かれた地と伝えられている。私の卒業した畝傍高校もこの市内だ。

 こういったご縁もあり、本を出版して少しした頃、市長の森下豊さんに手紙をそえて拙著を郵送して謹呈差し上げた。少し時間も経って、そんなことも忘れかけていた先週のこと、秘書の方から電話があって「来週そちらに市長が行く予定なんですが、お会いできますか?」とのことである。「もちろん、喜んで」とお答えしたところ、今秋お会いする手筈となり、火曜日にご訪問頂いた。

 私とほぼ同世代だが、3期日を務めておられ、ハツラツとして油が乗っている印象である。橿原市政のこともいろいろと話して頂いたが、来年には八木駅に市庁舎兼上層階がホテルというパイオニア的な建物がたつという。ちょっと驚いたのはそれが10階建てだが、奈良では最も高い建物になるそうである。景観から高い建物は規制されているのである。

 市長は有難いことに拙著を読了していただいたそうで、かつあちこちで話のタネとして話してくれているというのである。やはり、地元として神武天皇への思いは強くもっておられ、今後も日本の発祥の地として様々な取り組みをしていきたいとおっしゃっていた。

 本を書いたことで、こんなご縁も広がるものと、改めて納得した次第である。せっかくのご縁を大切にしたいと思う。


2016年11月14日月曜日

「古代史シンポジウム」への疑義 1

 拙著『よみがえる神武天皇』では、日本書紀を春秋2倍暦仮説で読み解くことで紀年を正し、その年表(新紀年表)に考古学の成果を重ねていくことで、大和の国が成立する姿を描きだした。

 しかし残念ながら(当然でもあるが)依然として古代史学会や歴史教育では私が「土器と墓と卑弥呼」の古代史と呼ぶ状況が続いている。

 今回まさにタイムリーというべきか、角川文化振興財団から古代史シンポジウム「発見、検証、日本の古代」という昨年開催されたシンポジウムをまとめた本が出版された。

  内容を見てみると、基本は2本柱で「魏志倭人伝」の解釈の深化と考古学の成果を基にし、その柱の上に古代史像を但み立てようとしている、まさに「土器と墓と卑弥呼」の古代史である。

 よい機会であるから、この場所でこの本の内容を採り上げ徹底的な批判を加えてみようと思う。

乞う、ご期待!!!


2016年10月21日金曜日

神武天皇 7

 神武東征は作り事である、と評する「難クセ」の中にたとえば、この話は神功皇后が難波で前妻の2人の皇子を討つ話と似ている、とか、天武天皇の壬申の乱の軍事行動をモデルにしているから、とかいうものがある。

 しかし、神功皇后のケースと神武東征の共通点といえば、船で瀬戸内海を東進した、というぐらいのことだ。九州から近畿へ行くなら誰でも瀬戸内海を通るだろう。四国の南を通ったといえば奇抜だが、合理性がない。

 壬申の乱との比較で、どちらも現在の榛原を通ったところが似ている、という批判をしている人もいる。だが、奈良盆地の東南側で軍事行動をすれば榛原を通るしかないのは地図を見れば明らかなのだ。(私はこのあたりの地形はよく知っている。)

 そもそもやや成り行きで始った神功皇后の東進や壬申の乱に比べて神武東征ははるかに計画的で合理的な内容になっている。これが後世のフィクションであったなら、ものすごい創作力を持ったライターを必要とするが、日本の歴史上そんな創作力のある人間を見たことがない。

 なぜ、そんな計画性と合理性があるか?

 それは、この話が事実であり、かつ、万人に一人の成功者の物語だからである。


2016年10月20日木曜日

神武天皇 6

 ところで神武天皇は本当に実在したのか?

 参議院選のあとの特番で、池上彰氏は「神武天皇は教科書でも架空の人物とされている」と断言している。8月の朝まで生テレビでは田原総一朗氏が「あんなものデッチ上げだ」と大声で存在を否定した。こういうマスコミ界の大物が断定するのだからそれが正しいんだろうと視聴者が考えるのも無理はない。

 しかし、このお2人、特に古代史について自分で考えたり調べたりしたわけではない。池上氏は非常に幅広いジャンルについて、教科書的な内容をわかりやすく解説することの達人である。
 しかし、真実の扉を開く、というような切り込みは、これまでやったことがない。彼のいう「教科書でも架空の人物とされている」というのは事実ではなく「教科書には神武天皇は載っていない」というのが正確である。

 田原氏は様々な分野に鋭く切り込んできた経歴を持っているが、軍国少年から価値観の逆転を経験した反動ででき上った歴史観をそのまま引ずっている。

 要するに、彼らの頭の中にあるのは、戦後の「皇国史観否定」の論壇ででき上った神武否定論であり、前世紀の遺物、というべき内容なのである。
 確かに、「紀元前660年に即位した」といわれれば、「嘘だろう」と論壇するのも道理があろう。しかし、これは春秋2倍暦によって紀元前37年の即位に修正するだけで、現実味を帯びた話となる。

 後に残るのは左傾学者が並べ立てた「難クセ」の山だけである。こんなところに真実があるはずがないのである。



2016年10月19日水曜日

春秋二倍暦仮説について

 日本書紀という書物がある。
名前は多くの人が知っているだろうが、実際読んだことがある人は極めて少数だろう。日本全体では100人にひとりも読んでいないと思われ、1,000人にひとりぐらいではないかと想像している。内容が近い書物の古事記は結構人気があり、翻訳本、解説含め多くの出版や、古事記をもとにした演劇なども作られている。

 日本書紀と古事記の大きな違いは、日本書紀が日本の「正史」であり、奈良時代初期の日本の国を挙げて編集された書物であるのに対して、古事記は稗田阿礼が話したことを太安万侶が記述したという、2人で作った書物であることだ。

 古事記は詩(うた)である、とも言われ、文学性が高く歌が多く掲載されている、民族の叙事詩である。

 これに対して日本書紀はどうも人気がない。それだけではなく、ある方面からは「ねつ造された歴史書」「勝者(天皇家)の歴史」「中国史書に劣る荒唐無稽な伝承」といった罵詈雑言があびせられるかわいそうな存在である。