2018年7月2日月曜日

ワールドカップ


あす未明にサッカーのワールドカップ決勝トーナメント、日本対ベルギー戦が行われる。当然日本チームを応援したいが、前試合のわだかまりが尾を引いて、夜中まで起きていようとの意気込みが出てこない。
ここに至る1次リーグの最終戦のポーランド戦で日本が「ボール回し」でホイッスルまで時間稼ぎをしたことに賛否の声が上がっている。私はワールドカップでしかサッカーを観ないというレベルでサッカーファンとは言えないが、やはりポーランド戦はテレビで観ていた。ここまでの運にも恵まれての勝ち点4で引き分け以上なら無条件、負けた場合でも同組の別試合の結果次第で決勝進出という有利な条件であることは承知していた。
後半になってポーランドに先制を許した。だが、これまでの2戦では後半に本田を投入してアシストないしゴールを決めているので「また出てくるかな」と期待していたがそんな流れにはならなかった。そうこうしているうちに同組別試合でコロンビアが1点取ってセネガルを1-0でリードしたとの情報が入った。そして現状のままで終われば日本が2位で決勝Tに進出するという。しかし、もう一つの試合も同時進行中でもしセネガルが1点取り返して引分ければ、日本は3位となり予選敗退である。
なかなかややこしい状況だな、と思ったが、西野監督は即断してキャプテン長谷部を投入し、「ボール回し」戦術を採った。この戦術を採ったことをテレビ画面で目の当たりにしたとき何とも言えない強い不快感を私は感じた。
優勢なものが試合終了までの時間、消極的な戦術を採ることは何もサッカーに限らず例えば柔道などでもよく見られることである。しかし今回のケースではコロンビア-セネガル戦という別試合が同時に動いている。劣勢のセネガルは必死になって同点ゴールをもぎ取ろうとしようとしているはずである。試合終了間際に劇的に試合が動くことはさして珍しいことではない。そんな状況の中で攻撃を放棄するという選択があり得るだろうか?一点取れば引き分けで他の試合がどうであろうと決勝進出、すなわちこの時点での勝ちを決定できるのである。(首位通過には勝たねばならいが。)

国家のプライド

私の感覚ではこういう自力で道を開ける可能性があるのに、他者に運命をゆだねてしまうという選択が信じられない。もしセネガルが1点取って結果日本が予選敗退したらどう釈明するのか。通常の評価で言えば「きたない」手を使ってしかも敗退した、という結果を残してどういう顔で日本に戻るのか?指導者が失敗した時に頻発する「想定外」とでもいうのだろうか?自分は勝手だが、Wカップ史上に黒歴史&喜劇として確実に残ることになったかも知れない試合をさせられた選手を気の毒に思う気持ちがないのだろうか?
そもそもオールジャパンの代表として戦っている以上チームはたかがサッカーでも「国家のプライド」を賭けて戦っていることになる。もちろん勝つことは「国家のプライド」を高めることになるが、きたない手を使って勝つことはプライドを損なう行為である。
ポーランドはよく親日国と言われている。そしてその根源に日露戦争があることもよく知られている。日露戦争でのポーランド捕虜の扱いが極めて人道的であったこと、あるいは常にポーランドに圧迫を加えてきたロシアを日本が打ち負かしたことがその根源である。ヨーロッパの人々は一般に日本人よりはるかに歴史意識が強いが、今度の試合を見て普通のポーランドの人々が何と感じたか?「日本人の変質」のようなことが彼らの目に映ったのではないかという懸念を持っている。

サムライジャパン

自分たちはただサッカーをしているだけで「国家のプライド」とは関係がない、というなら逆に一つ苦言を呈したい事がある。「サムライジャパン」という呼称である。男が「サムライ」で女が「なでしこ」というのは現在の世相に対するブラックジョークのような気もするが、「サムライ」は我々の祖先が血と魂で築いた世界ブランドだ。
世界中で大型海賊行為を繰り広げてきたイギリスを中心とする欧米各国が極東で最後に出会った日本で自分たちの祖先の「騎士」に似た人々に会った。その驚きが「サムライ」のブランドとなった。
最近、明治維新に対する「引かれ者の小唄」のような退嬰的否定論が何故か幅を利かしている。しかし「サムライ」の極点としてやはり、外圧をはねのけ、制度疲労でどうしようもなくなっている徳川幕府と身分制度を刷新した主役の武士たちを上げることが至当であるといえよう。(逆にサムライの情けない例として「旗本八万騎」がある。)サムライとは何かを考える上で、欧米と実際に戦争をした「薩英戦争」「下関戦争」を挙げてみよう。
薩英戦争は今となってはただのイギリス艦隊と薩摩藩の一戦闘ぐらいの認識しかないと思うが、日本の歴史が大きく曲がりかねない危険性を持っていた戦争である。中国の阿片戦争と枠組みが酷似しており、対応を誤ればその後欧米各国に主権を盛大に蚕食された清と同様の道を歩む可能性があったし、イギリスには当然清と同様の日本での利権拡大を狙う思惑があった。ところがそうはならなかった。なぜか?
まず薩摩藩が意外に強かったことである。確かに島津藩の砲台は8門破壊され最後はほとんど沈黙した(相手が射程外に出た)。また鹿児島市街が広範囲にロケット砲(大型の花火のようなもの)で焼かれてしまった。しかし、人的被害はわずかで死者は公式には兵士は1名となっている。(正確でない可能性大)これに対してイギリス側は軍艦の大破1、中破2、死者20人でその中には旗艦の艦長も含まれている。しかも何とか面目を保って戦力の優位性を示せたのは実はまだ試験採用中だったアームストロング砲が威力を発揮した(暴発もして問題になっている)からである。これが無ければ、むしろ簡単に撃退された可能性が高い。

タフな交渉者

さらにその後の和平交渉で、薩摩藩が一切妥協せず生麦事件の非を認めなかった。(大名行列にイギリス人が馬で乗り入れたのだから国内法で即時切り捨てが合法)結局、仲介して事を収めようとする幕府からイギリスが要求する賠償金を借用して払い、踏み倒している。
そしてこの借用賠償金を払う条件として、なんと薩摩藩はイギリスからの軍艦購入を求めており、イギリスはこれを認めている。幕府が仲介する場でである。その後薩摩藩はさらにイギリスと急接近し、鹿児島に招いて大宴会をし、大量の留学生を送り込んでいる。
イギリスから見れば、「これは清と同じ方法ではいけない。」と思うのは当然だし、また、これからのこの国を引っ張るのは右往左往ばかりしている事なかれ前例主義の幕府ではなく、「薩摩のような者たち」だろうと判断するのは当然だろう。
ところが、日本攻略の方針転換を検討していたであろう欧米各国にとって願ってもないというか、飛んで火に入りる夏の虫というべき事態が下関戦争である。何か問題を起こして戦争をして、利権を獲得していくとう海賊型の「ビジネスモデル」の彼らにとって、突然向こうから長州藩が砲撃をしてきた、というのはまさに家出娘がゴロツキのところに転がり込んだような話(例えが?)でどうやって料理してやろうか、という事に現場ではなった。(本国政府は薩英戦争に懲り、日本での軍事行動を禁止する訓令を出していたが届く前だった。)実際傑作なことに最初長州藩から攻撃されたのは仏蘭米なのに、「海峡封鎖で多大の損害を受けた」の名目でイギリスが呼びかけ人となり英仏蘭米で17艘の大艦隊を組織して下関に殺到した。薩摩藩に性能では劣ったであろう長州藩の砲台を完膚なきまでに破壊、今度は上陸占領もしている。さー今度こそみんなで長州を切り刻んで分け前を分割しよう、と意気込んでいたと思われるが、そこに現れたのが高杉晋作である。
高杉はまず大変高圧的な態度に出たうえで、賠償金については、「砲撃は幕府の指示によるもので、賠償金がいるというなら幕府に要求しろ。」と突っ張り続けた。戦争に負けてその態度は何だ、と追及されると「負けてなどいない。ご希望とあれば陸戦にて防長30万人士が全員兵士となってお迎えいたそう。」と啖呵を切っている。そしてそれ以外の緊急時の上陸とか薪炭の補給などの軽いものはやすやすと受け入れ、彦島の借款は断固拒否、結果ほぼ無傷のままで交渉をまとめている。
つまりこういう熱い魂を持ちながら有能な実務者でタフな交渉者でもある者たちがアーネストサトウなどのイギリス人に与えた印象が「サムライ」の原像となっていると思う。

長々とれ志士の話をしたが、「サムライ」を名乗るなら幕末の志士や日露戦争の将軍たちが持っていた世界に伍す気位、自力で前に進んで道を開く気概を学んでほしいものである。西野監督には一省を促したい。

がんばれニッポン。

2018年6月20日水曜日

古代史に珍論奇論が発生する10の理由

JCalによる推定は垂仁天皇時代とさらに正確に一致

 纏向遺跡の桃の種についての炭素14の測定による年代推定で出土した桃の種の年代がAD135年-230年と推定されたことが報じられ、私の2倍暦仮説の傍証となると喜んでいた。ところが、今回発表の元となっている纏向学研究センターの研究紀要6(http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-6.pdf)を見てみたところ、さらに喜ばしい事実を見つけることになった。
年代測定者のうちの一人の近藤玲氏の資料を見ると、炭素年代推定のモノサシになる炭素14の残存量の平均レンジとして国際標準のIntCalとあわせて日本の試料で推定したJCalのグラフも書き込まれていることに気が付いた。今回の推定はIntCalを用いて行われていてJCalについてはなぜか言及がないが、地球上の各地域で炭素14の濃度に偏差があることから最近はJCalによる推定の方が重視されている傾向があるという。(ただしこの事実はこの推定法がまだ「生煮え」の手法であることも示している。)
 で、ともかく下記のグラフから勝手にJCalを物差しに年代を読み取ってみるとですな、桃核最下層という試料ではだいたい210年-248年、桃核上層では237年-252年の推定となる。ところが、前回述べたように私の2倍暦仮説による推定では第11代垂仁天皇のご在位は214年―262年となっていて2つの試料の推定年代はほとんど2倍暦の垂仁天皇の在位時代に収まるのである。まことに喜ばしいことである。


纒向学研究センター研究紀要、「纒向学研究」第6号より引用

 私の2倍暦による年代推定は、日本書紀が通常の年代記述になったと見られる第20代安康天皇の即位年である454年以前の天皇の在位年数をただ半分にして修正したものに過ぎない。2倍暦があったとしてそれを通常の実年代にもどすにはごく当たり前のアプローチで独創性など誇るものでは無い。(第9代開化天皇以前は古事記の年齢で修正した。)しかしこの単純な推定と纒向遺跡の炭素14による年代推定がほぼ正確に一致したという事実は、手前みそながら百鬼夜行の日本の古代史に明るい光を照らしたことになると自尊している。(なお、纏向遺跡の最初の発掘者である石野信博先生も、もともとこの遺跡が機能したのは西暦180年から350年ごろまでという見立てをされている。)

 とはいいながら、私がいくら自尊するなどと言って自己満足に浸っていても、古代史を巡って、よく言えば百家争鳴、シニカルに言えば珍論奇論の百鬼夜行という状態が収まるとも思えない。なにせ本居宣長、新井白石以降300年も議論が続いているのである。そしてインターネットでの情報発信が行われるようになってさらに発言者は激増し、議論百出どころか議論万出とでもいうような状況となっている。

どうしてここまで様々な議論が出てくるのか?

 そこで、そもそもどうしてこんなに議論がたくさん出てくるのか?その背景について一度考えてみたいと思う。まず、様々な議論が出てきやすい前提状況というものが日本の建国の時期の古代史にはあるように思われる。要約すると次の2つではないだろうか?

①日本の古代にはもともと残っている文字情報が極めて少なく、結果基礎資料に当たることが他の時代、ないし文字情報の多い地域の歴史に比べても容易である。

 極端に言えば邪馬台国論争に参加するには「魏志倭人伝」2000(の翻訳)だけ読んで、何か「自説」を思いつけば出来ないことはない。他の中国史書はほとんど断片しか日本について記述がないし、「古事記」、「日本書紀」についても魏志倭人伝などとは比較にならないほど内容が豊かだが、かと言って邪馬台国の時代あたりまでは読むのに苦労するほどの分量ではない。また、「信頼できない資料」と切り捨ててもそう非難もされない。つまり基礎資料が少ないことで、議論に参加するハードルが非常に低いのである。

②古代史の専門家と称していても、実情は考古学、ある短い時代の文献学などの特定分野の専門家となっていて、全体を総合して説明できる重量級の古代史の専門家が最近は少なくなっている。

 私は京大の理系の学生だったが教養課程で上田正昭先生の古代史の講義を受けた。400人位入る大講義室が満員になる人気講座だった。そのころ東大には文学部長として井上光貞先生がおられた。井上先生はそのころ1番の日本古代史の権威者であっただろう。お二人は何度か論戦されたようだが、共通しているのは文献学、考古学、民俗学、比較文化論などの多面的な情報から、日本の古代はどんな姿だったのかを総合的に再構成しようとする姿勢があったことである。上田先生の講義では折口信夫に対する尊敬と戸惑いの入り混じった複雑な感想を何度もお聞きしたものである。
古代史学の歴史にそんなに詳しいわけではないが、もっと時代をさかのぼって津田左右吉(歴史上の人物として敬称を略す)や三品彰英はさらに総合的だし、明治の那珂通世や久米邦武はさらにそうであるという印象を持っている。ただ歴史が下るほど有利になるのは主に考古学の発掘の結果が積みあがっていくことで、過去の事実の証拠が蓄積されることである。

 しかし、井上、上田先生以降、どうも権威といえる存在がいなくなったように思う。権威とは多くの意見を飲み込んだうえで一段高いところからの見方を提供でき、多数がそれに従う人とでも定義するとして、そういう人が見当たらなくなっている。高いところから見ている権威者がいなければ、少々荒っぽい論建も述べることに躊躇がなくなる。家庭に怖いオヤジがいなくなったようなものである。これは必ずしも古代史に限らない。たとえば大震災の後、地震や原子力についての解説が多くの「専門家」によってなされたが、局所にこだわって全体の見えない、聞いている方が恥ずかしくなるような内容が多かった。これも専門の分化が進みすぎたせいであろう。

 そしてこの2つの背景が珍論奇論が澎湃として湧き上がる土壌を形成している。だがそんな「豊かな」土壌でも咲く花々は多様である。多様な珍論奇論にはその論が導かれる道すじとして以下の10ほどの要因があると見ている。

古代史で珍論奇論を生む10の理由

1.真理を探求するはずの学問の世界に政治的な思惑を持ち込んで結論ありきの立論をする。
2.中国史書を宝典のごとく信奉し、作者が神か超人ででもあるかのような解釈をする。
3.古事記、日本書紀が成立した時代の大和朝廷を悪の権化のように妄想し、様々な陰謀論を展開する。
4.日本書紀の編集者は古代史の全ての事を知っていたという無理な仮説をまず前提としそれから様々な邪推をする。
5.古事記、日本書紀に語られた神話を現実の歴史と見なして場所や人物を比定しようとする。
6.後世にたまたま別々の記録に残った人物の中から、「実はこの二人は同一人物ではないか?」と言って恣意的に結び付ける。
7.大胆な仮説ではあるが根拠に乏しい論を大胆に展開し、さらに根拠の弱い推論の階層を重ねる。(話としては面白い。)
8.ご当地ソングでもあるかのように、地元愛を推論のベースに置いて我田引水する。
9.大きな組織・勢力が成立するとき、当然そこに存在する組織の成立の背景や理由について、いつの時代にでも共通する常識をわきまえないで議論を走らせる。
10.情報伝達や人の移動、人口密度などのその時代の土台となる前提条件についてその時代に当てはまる常識的な想定をせず、後世の社会のイメージと混同した状態で推論する。


 こうした議論で百家争鳴となるのは活気があるといえばいえるが、混乱状態であるとも見て取れる。そして上記のようなバイアスは真実に至るには逆の作用をもたらしているであろう。事が我が国の建国に関わることであるだけに、あまり荒唐無稽な話はこのあたりでそろそろ淘汰されるべきであるとも思う。ところが実際は結構それなりの立場の人が首をかしげるような話をされているケースも多い。

 どう考えても悪趣味としか言えないが、次回から上記の10の理由が生み出している珍論奇論を少し紹介してみよう。

2018年5月17日木曜日

纒向遺跡の桃の種の年代推定について

 纒向遺跡から出た桃の種の年代推定の結果が公表された。

 発表によるとこの種は西暦135年から230年の間のものである可能性が高いとの事である。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180514-00000049-asahi-soci、など)
 この結果は卑弥呼が実在したとみられる200年代前半と重なる部分があり、そこから纒向が邪馬台国であった可能性が高まった、と複数のマスコミが報じている。しかしこの結論は、これまでも関西の研究機関などが中心になって行ってきた「近畿説運動」の一環というしかない。

 確かに今回の推定(どこまで信頼できるかはなお?だが)は、これまでの有力諸説のうちの一つに決定的な引導を渡した点に大きな意味はある。これまでの邪馬台国論争では、有力な3説として、
①邪馬台国九州説 → のち近畿勢に吸収される
②邪馬台国近畿説 → のち大和朝廷となる
③邪馬台国東遷説 → 卑弥呼の時代、九州にあった邪馬台国がのち近畿に遷って大和朝廷になる
があった。そして、九州説の中では①よりむしろ③の方が支持者が多かったように思う。

 しかし今回の推定を正しいとするなら、卑弥呼の時代にすでに纒向はあったことになるから③は成り立ちようがない。よって邪馬台国東遷説なる、ロマンにはあふれるが実態のさっぱり見えない空想的仮説は今後消滅せざるを得ないことになる。
 この結果、邪馬台国論争から一つの主要メンバーが消え、残る有力説は①②の純粋九州説と純粋近畿説の2つとなった。そして今回の推定はこの両者の優劣に対してはニュートラルであろう。

 ところが、手前みそながらこれまで述べてきた私の推論に対しては今回の結果は大変強力な支援材料となってくれているのである。私は以前から述べている通り、邪馬台国はあったとすれば①の九州説が至当で、かつその後消滅した地方勢力に過ぎないと考えている。拠って立つところとしては真実の書と呼ぶにふさわしい日本書紀を高しとし、政治的作為の産物である魏志倭人伝を低く見る視点に立脚している。
 実際、日本書紀は編纂時の8世紀には既に跡形もなかったであろう纒向に「3代の天皇の都があった。」と明確に述べているのである。ただし日本書紀は日本の古い時代にあった2倍暦年齢をそのまま記述したために一見荒唐無稽な年代観となっている難点があり、これを修正しなければ実相は見えてこなない。
 この修正を私なりに行って作成したものを「新紀年表」と自称しているが、この年表では纒向に都した崇神、垂仁、景行天皇の治世は西暦180年から293年となる。




 この年代観と日本書紀の記述内容、纒向の大型建物の発掘結果を突き合せれば最大の建物Dは垂仁天皇の居館であり建物Cこそは伊勢神宮の祖型であとの仮説が成り立つ、と考えていたわけであるが、今回の推定結果はこの仮説を強く援護してくれている。
 すなわち今回の桃の実は建物Dのそばから発見されたものである。私の説では垂仁天皇の居館のそばという事になる。新紀年表では垂仁天皇の治世は214年から263年であり、推定の時期との重なりを持っている。桃のみの年代推定結果を以てこの建物Dを垂仁天皇の居館とさらに自信を持って主張することができるのである。

 なお、この桃の実に宗教的な意味を付会しシナから渡来した西王母思想と結びつけるような珍説もまま見られるが、妄想の一種であろう。そばにある伊勢神宮の祖型には目もくれず後世に何の跡形もない宗教儀礼があったとするような主張は荒唐無稽としか言いようがない。貝塚のようなもので、「垂仁天皇はモモがお好きであったのだろう。」ぐらいの見方の方がはるかにリアリティのある推定ではなかろうか。

2017年9月15日金曜日

北朝鮮問題の解決策 2

 本日、9月15日の06:57に北朝鮮がまたしてもミサイルを発射し、北海道上空を通過させた。飛行距離は3,700kmと報じられグアムを射程に入れたものと言われている。これは先日の国連決議への反発と対抗の意思を明確に表明している。
 私見では北朝鮮への制裁は、核ミサイルの開発を妨害する一定の効果はあるだろうが、開発を止めさせることは不可能だ。プーチン大統領が言った「北は草を食べてでも核開発を進めるだろう」というのは真理を突いている。

 前回述べたとおり、私は中国ないしロシアによる金正恩委員長の強制亡命の実行が最も得策だと考えている。金正恩体制のままで国際社会と強調する国に変わることはまず不可能である。
 日本は中、露に対して「このままでは危機は高まる一方である」「我が国の核武装論議も現実味を帯びる」と説得することで、彼らの実力行使を促すという外交戦略を展開してはどうであろう。

 金正恩体制を終わらせるのに全面戦争以外の望ましいプロセスとしては、
  ①北朝鮮内部からの民主化クーデター
  ②強制亡命
  ③暗殺ないし斬首作戦
があげられる。①が最も望ましいが、これまでの経過と彼の国の人々のメンタリティーから見ると難しい。病気でいえば①は自然治癒、②は内視鏡手術、③は開腹手術と例えられようが、数字の順に危険度が上がることになる。

 しかし、今手を付けなければ手遅れになってしまう。手遅れとは数十発の核弾頭搭載のミサイルが北朝鮮各地に実戦配備され、その発射ボタンを金正恩氏が握る状態のことである。そうなればアメリカの軍事力を総動員しても手を付けられなくなるであろう。

 ところで一部に北の体制が崩壊すると中国、韓国そして日本にも難民が殺到して大変な問題になる、と危惧する意見があるが、そんな心配は全くないと私は見ている。この馬鹿々々しい恐怖政治が終われば、北朝鮮の人々はほとんどがもろ手を上げて喜ぶことであろう。現体制で迫害された人々の復讐による抗争ぐらいはあるだろうが、これは警察力で抑えられる程度のことである。

 過去にもソ連崩壊時に日本でも「5000万人難民説」が真顔で心配されていたが、実際には全くそんな事態は起こらなかった。それまで配給に頼っていた人々がソ連崩壊とともに自分で畑を作ってジャガイモを育てたのである。

 現体制の崩壊は北の人々にとって長年続いた牢獄生活からの解放であり、まともな社会を建設するスタートとなる。もし混乱や物資不足が起こればそれこそ国際社会が全力でサポートすればよい。そして、我が国にとってとても重要なのはそれによってこそ拉致被害者の帰国に大きな前進が期待できる事である。

 以前から不思議なことと思っているのだが、北朝鮮問題の議論の中に、北朝鮮の民衆の人権について言及する論者がほとんどいないのはなぜだろうか。愚かな独裁者のために2,000万人の民衆が長年犠牲者となっていることを気の毒に思わないのであろうか?
 
 日本国内での人権問題や弱者への国の対策、あるいは戦前の日本が行った内外での人権侵害についてはありもしないことまで口を極めて非難する「人権派」の人々が、どうして北朝鮮の民衆の人権が踏みにじられ続けていることを非難しないのか理解に苦しんでいる。数知れぬ民衆(拉致された我々の同胞を含む)の不幸の連続が続いていることを、他国のこととして傍観することは許されないことではないだろうか?

 やはりこのような異形の体制はここまで他国への脅威となっている以上、国際社会が協調して一行も早く排除すべきであろう。

2017年9月11日月曜日

北朝鮮問題の解決策

 北朝鮮の暴走が止まらない。先月8月29日の北海道上空を超えた弾道ミサイルの発射に続き、今月3日には水爆実験を強行、100数十メガトン級と推定される爆発が観測され、彼らが水爆を手にしたことがほぼ確実になった。

 アメリカ主導で本日11日に国連の安保理で石油禁輸を含む過去最高の制裁決議が検討されるが、これに対して今日北朝鮮外務省「米国が考えもしない強力な行動措置を連続的にとる」という表明を発表している。

 北朝鮮の過激な言辞はいつものこととはいうものの、石油禁輸の意味を考えれば現在の状況が「開戦前夜」に近づいていることは否定できない。開戦すれば日本含め大きな被害が出るからアメリカは開戦には踏み切れない、という希望的観測がある程度の勢力を持っているが、これは「平和ボケ」としか言いようがない見方である。時間が経てば危機が減少するという見通しがあればともかく、現状では時間とともに北朝鮮の核戦力は向上していくのであるから、それなら早いうちに手を打つべしというのがむしろ常識であろう。しかも、制裁を強めることは、太平洋戦争がそうであったようにむしろ暴発を誘う結果となる恐れすらあるのである。

 この問題を解決する最も効果的な方策は、金正恩委員長を北朝鮮の最高指導者の地位から外すことであろう。

 核戦力は現在、世界中に拡散し人類は何度でも滅亡できるだけの核弾頭を蓄積している。しかし、ヒロシマ、ナガサキの悲劇の実情も広く知られており、世界の指導者には核は抑止力としてのみ使う、という暗黙の合意が成立している。ところが、金正恩氏の言説を見ていると、彼は状況によっては本当に使うかもしれないと思わざるを得ず、少なくとも核を使うことを脅しの手段としては確実に使ってくると推測されよう。もし、アメリカが北朝鮮の核保有を認めれば、十分な核戦力備蓄のあと、たとえば日本には信じ難いほどの経済援助要請(身代金の請求)をしてくることはほぼ確実ではないだろうか。

 この「指導者」は既に実兄を世界の公衆の面前で毒ガスで殺害し、実の叔父を高射砲でミンチにする、という狂気を示している。粛正された幹部は数百人とも伝わっている。すなわち常軌を逸した人物で、かつ粛正が怖くて周りは誰も直言・制止できないモンスターである。

 斬首作戦という、このモンスターを取り除く作戦も準備されていると報道されているが、取り逃がした場合のリスクは瞬間に極大化する。また、捕物中にもミサイルを可能なだけ発射してくることは覚悟しなければならない。

 最もリスクの少ない排除法は、斬首ではなくある日突然両脇から彼を取り押さえて、中国なりロシアに亡命させることである。これには中国かロシアがその気になり、北朝鮮内部と連絡を取りながら静かにXデーを迎えて断固として行えば可能であろう。両国はそうした「戦力」は豊富に保持している。

 現状ではモンスターの扱いに中・ロも困ってきており、場合によっては自分たちにミサイルが向かってくることまで想定せざるを得ない状況である。乗れない話ではあるまい。
 
 日本はこの際、中国、ロシアにそうした処方を取ることを要請するべきであろう。「もし、このままの危機が続くようなら、わが国も自国防衛のため、自前の核戦力保持を検討することを余儀なくされる。」と伝えることも忘れないでおこう。

2017年7月10日月曜日

「沖ノ島」の世界文化遺産登録

 「沖ノ島」が宗像神社の他の遺跡を含め世界文化遺産に登録されることになった。

 遺産登録の話が出てから、マスコミでもたびたび取り上げられている。年1回の儀式以外、基本人の立ち入りを許さず、完全に女人禁制が1,000数百年守られてきた。禁を破っての昭和の学術調査で、手つかずのままの祭祀跡が発見され、8万点に及ぶ遺品が発見されすべてが国宝となっている。

 海の正倉院とも呼ばれているが、4世紀に遡るとされるこの遺跡は同時代文章の残る奈良の正倉院より更に重要な歴史のメッセージが伝えられていると考えられる。

 沖ノ島の遺跡と遺品が重要なのは「神道とは何か?」について物証として物語っている点である。現在の神社は一般に大きな拝殿、本殿を持ち、多くの人がそこに詣でるという形式になっている。沖ノ島も宗像大社の一部であり、海べりの辺津宮は大きな神社であり、大島の中津宮、沖ノ島の沖津宮にもそれぞれ建物が建っている。

 しかし、沖ノ島の遺跡は建物ではなく、島に林立する巨岩の上の平らなところ、ないし岩陰に祭祀跡があり、遺品が残されていたのだ。いわば神道の元型がタイムカプセルに入って1,000数百年奇跡的に残されてきたのである。(辺津宮にも高宮という古代の祭祀跡と見られる遺跡がある)

 沖ノ島の遺跡は、古代の神道、ひいては「日本とは何か?」を知るための貴重な遺跡である。世界の人々に知ってもらうことも重要だが、それ以上に我々日本人が自らのルーツを知るために注目しなければいけない「古代からのメッセージ」である。


2017年6月27日火曜日

藤井四段のライバルは?

 14歳の中学生、藤井聡太四段が29連勝を遂げ、これまでの将棋界の記録を塗り替えた。昨日のNHKニュース9では30分近くこの話題を伝え、今日の朝日新聞一面は2/3を割いて伝えている。外国のことわざに「世界はヒーローを待っている」というのがあるが、若きスーパースターの登場は人々の心を熱くするものである。

 藤井四段が大天才であることは疑いなく、順調に成長していけば、棋史に名を残す大棋士となることはまず間違いない。ただ当然、今は真っ直ぐに勝負に向っている心の姿勢が、成長とともに様々な誘惑や煩悩で迷走を起こし、壁にぶつかることもあるだろう。

 今のインタビューなど見るとそんなこともソツなく超えていくようにも見えるが、人生何が起こるかわからない。順調に才能を伸ばして欲しいところだ。有象無象の「ヒイキの引き倒し」に周りの心ある大人たちも十分注意する必要がある。

 さて、藤井四段のライバルは誰か?残念ながら今の棋界のオールドスターたちは、いくばくかの抵抗はするだろうが、藤井四段の軍門に降るのは時間の問題である。なぜなら「若い頃の修業が違う」からだ。これは今のスター棋士が若い頃に修行を怠った、といっているのではない。環境が違うのである。

 藤井四段は将棋の研究にAIを使っているという。そしてご存知の通り、既にAIは各人に完勝するレベルに腕を上げている。すなわち、藤井四段は若いうちから神の如き先生に教えを受けているのである。プロ棋士の骨格は小、中学時代に出来上がり、それ以降は応用力で勝ち方を学ぶ。よって、若いうちに、神の如き名人(AI)の指導を受け、それを血肉にしている藤井四段に今の大人のスターたちが勝つのは極めて難しいのである。ではライバルはいないのか?ライバルとなれるのは、これからより進化するAI名人により若い時から指導を受けた子供たちの中から出てくるであろう。

 それまでは藤井四段が今の大人のスターたちの壁を崩していくフェーズである。今のスターたちには「応用力」と勝負の手練手管で若きモンスターを所詮時間限定でもはね返してもらいたいところだ。