2016年8月30日火曜日

神武天皇 3

神武天皇はどのような人物であったか?

 日本書紀では日向の地で4人兄弟の4番目であった。45歳の時「この地は西に偏りすぎている」と判断し、「青山周る国の最中、美しい地」としての大和を目指して東征の途に出た、と記している。

 これがBC667年となっているわけだが、「春秋2倍歴仮説」によると、BC44年に修正され、45歳も23歳に置き換えられることになる。
すると、この話は弥生中期のこととなるわけだが、私の見方は、これがそのまま史実であったと考えている。

 史実であれば、ストーリーは考古学で実証されていることと矛盾してはならない。
では、宮崎の地は弥生時代どのような情勢にあったか?

 宮崎には弥生遺跡は少なく、北部九州とは様相を異にしている。稲作が始まったのは北部九州ということもあり、加えて山に囲まれて自然災害の少ない北部九州に比べ、ふきっさらしで台風の害が大きく、かつ地味がやせていることが原因であろう。

 すなわちそんな悪い条件の土地が、神武天皇の故地であった。
そんな地を見限って、より良い土地を求めて旅立った23歳の若者がのちに大をなしたのである。

 そのスタートはまことにささやかなものであった。

2016年8月26日金曜日

神武天皇 2

 『よみがえる神武天皇』では日本書紀が伝える「神武東征」のルートとプロセスに私が年代修正を行って考古学の成果を取り入れ実像を再現しています。

これを要約すると狭野の尊(神武天皇)は、

- BC44年 日向を発つ。
- 次年、筑紫、安芸を経て吉備に至る。
- 吉備で3年間兵を集め、武器と船を整える。
- BC40年 吉備を発ち、河内に至り生駒でナガスネヒコに撃退される。
- 紀伊半島を迂回して伊勢に上陸、山中を難行のあと宇陀を平定。
- ナガスネヒコとの決戦に勝利して大和平定。
- BC37年 初代天皇に即位。

ということになる。

 日向を出たときは東征軍は数十人規模であり、吉備で軍勢を整えて数百人となったと想定している。
 このプロセスを改めて振返ると、これが情報の乏しい時代に、手探りで進みながら極めて着実で優れたプロセス管理がされていることに気付く。加えて、所々で幸運にも恵まれている。逆にいえば、あまりに出来すぎているのである。
この点を突いて、「この説話は後世の作文」という批判もあり得ると思う。(あまりこういう指摘はないが)

 しかし、考えてみれば、スタート段階では神武天皇もまた数限りないチャレンジャーの一人であったのである。その中で最大の成功者となったのが彼である。
甲子園の高校野球大会の勝者は一校だが、その陰には何千もの優勝できなかった学校がある。

 「神武東征」が出来すぎている、との印象を与えるのは、甲子園優勝校の足跡を逆にたどった時、それは必然と幸運がいくつも重なったものであるとの印象を受けることと同じであろう。

2016年8月24日水曜日

読者からのお便り

 『よみがえる神武天皇」を出版してから何通か読者から手紙をいただきました。ありがたいことでございます。おおむね好意的な内容の方が多く、励まされます。中に結構突っ込んだ質問もいただきましたので、ご紹介いたしましょう。

 Mさんは定年退職後、古代史に興味を持たれたとのことで、私の本で「すっきりした」と言って頂きました。質問としてはやはり2倍暦の考え方を持っておられる長浜浩明さんの見方との違いをおたずねです。

 具体的には、

①神武即位がBC37年は河内潟の時代と少しずれがあるのではないか。
②大和の国による邪馬台国の併合AD277年は台与の朝貢の266年に比べ近すぎないか。

との2点です。これに対しての私のお答えは、

①については、基礎資料の「大阪平野の生い立ち」(梶山・市原)で河内潟は2000-3000年前、そのあとの河内湖Ⅰは1800-1600年前(1972年の資料)としていることから、両者に200年の余地を持っているので、大丈夫でしょう。

②については仮にもっと併合が後なら、「事大主義」の台与はさらに朝貢を重ねたでしょう。また、長浜さんの2倍暦修正は、仁徳紀を古事記の没年齢を優先して18年とされています。私の見方では、年齢記録より在位記録の方が正式で正確であろうと考えていますから、日本書紀に従い2倍修正だけして仁徳紀は44年と見ています。

といたしました。

 全てのご質問に答えられるかわかりませんが、これからも興味深いご質問にはなるべくお答えするつもりです。よろしくお願いいたします。

2016年8月23日火曜日

神の道 2

拙著「よみがえる神武天皇」では、大和の国が大和盆地から日本全体へ勢力を拡大したのは、「稲作と神道」がセットになった「大和国システム」の力によるものとの仮説を立てた。

 この本を書いている段階で、神道と米作りについては相当関係が強いだろうなというややボンヤリした見通しを持って取り組んでいたのであるが、もっと神道を知らねばならないとの思いは持っていた。
 最近ちょっとしたご縁から神道の真ん中にいるような方と知り合いになることができ、話をうかがっている。

 そのお話を聞いて、改めて驚いたが、神道と稲作は関係がある、というようなものではなく、ほとんど一体となったものであるようだ。
 
 新嘗(にいなめ)祭はよく知られているが、実は毎月の月例祭、あるいは毎日の儀式も基本は同じで、神に稲を始めとする五穀を進め、自らもこれを食するのである。神道=稲作と一体のものと考えてもいいぐらいの関係なのである。

2016年8月21日日曜日

神武天皇 1


 拙著『よみがえる神武天皇』では、新しい神武天皇像を提示した。
彼は23歳で故郷、日向をわずかな仲間と共に出発し、東征プロジェクトを着実に進めた。大和盆地に入るところで様々な艱難も味わうが、それらを乗り越え、7年後に大和橿原の地で初代天皇に即位する。

 池上彰さんは参議院の選挙特番で三原じゅん子さんに、「神武天皇は架空の人物と教科書でもされていますよ」と迫っていたが、これは池上さんの現状認識が誤っている。現状は「教科書のどこを見ても神武天皇は出てきませんよ」というのが正しい情報だ。(実はもっと若い)→

 池上さんが育った時代はまさに、教科書から古代の天皇を悪しき権力者として追放する運動が盛んで、家永三郎さんなどは延々と政府と「教科書裁判」を闘っている。

 しかし、現在の歴史関係の人で「神武天皇は架空の人物」と言い切る人は少ないように思う。
「神武天皇的な人は大勢いた」とか「倭国大乱の原因」とか「邪馬台国東遷が神武伝承となった」とか、様々な説の要素として「神武天皇」を取り込む人が多い。だがやはり、個人としての神武天皇がいたか?となるとあまりみなさん肯定的ではないのだ。

 大勢の人が我こそは「神武天皇」になろうとしてチャレンジした、というのは私もそう思う。しかし、そんな人々の活動を後世の人が一人の英雄に仮託して物語を作った、というもっともらしい話には乗る気がしない。(ヤマトタケル、神功皇后でも同じような説明がされる)

 戦争直後に浜松で本田技術研究所という町工場が立ち上がった。今日、なお二輪車製造世界一のホンダ技研の前身である。最初、進駐軍放出の小エンジンを自転車に括り付けたような「原付」を製造していた。

 それが発展して今日のホンダ技研になったわけだが、実は戦争直後、浜松には同様の会社が雨後のタケノコのようにできて200数社もあったのである。他のそんな会社がその後どうなったか、今となってはほとんどわからない。だがホンダ技研についてはだれでも知っているし、社史かWikipediaでも開けば会社の歴史も詳しくわかる。なぜか?生き残って世界的な大会社になったからである。

 本田宗一郎さんは若き日の様々な苦労話を機会あるごとに話されている。だからそんな記録も残っている。神武天皇の記録が残っているのも、彼が勝ち残った上に彼の建てた大和の国が後世大発展したからである。彼も若き日の苦労話を機会あるごとに話したことであろう。

2016年8月20日土曜日

新しいスタートの日かもしれない



 日本中がオリンピックのメダルラッシュにわいているが、今日の400mリレーの銀メダルは、なんとも格別だ。大いに祝いたい。

 誰も9秒台の記録がなく、100m決勝に残れなかった4人がチームワークで2位に入った。いかにも日本らしい力の出し方だ。しかもトップがジャマイカで、3位アメリカ(結局失格)を抑えての2位である。

  カールルイスはスーパースターだったが、ぞのずっと前からアメリカは陸上王国で、私の若いころは大人と子供のような印象、とても短距離で勝つなど想像もできなかった。「勝てるわけない」というあきらめも選手にも最初からあったように思う。

 それが今日の選手たちを見ると、実に明るく、プレッシャーをエネルギーに変えてしまっている印象を受けた。それだけの精神力を身に着けてきたのだろう。新しい形の大和魂かもしれない。

 何回か前のオリンピックで、ソフトボールの上野由紀子さんの熱投を見て、彼女にこそ大和魂という言葉がふさわしい、と思った。それに引き換え日本の男は、という気持ちがあったが、今日は新しいスタートの日だという思いを持っている。

2016年8月19日金曜日

神の道

日本の神道とは何であるか?
私にはまだよくわかっていない。
そもそも神道は宗教といえるのか?少なくとも他の代表的な宗教(キリスト教、仏教、イスラム教など)と比べて、「ああしなさい、こうしなさい」というものが何ら発信されてこない。だから日本人は神社に参るけれども、神道を信じているとは思っていないだろう。信じる「教義」がないのである。
しかし、信じていないといいながら「日本人」のすみずみに神道は存在する。むしろ同一ではないかと思える程だ。この日本の神の道をすこし追いかけていきたいと思う。

2016年8月18日木曜日

奈良新聞の書評

 拙著、『よみがえる神武天皇』につき、わが故郷の奈良新聞に掲載していただきました。
8月15日付の書評欄です。奈良新聞は地域がら歴史関係に力を入れておられ、HPには考古学のコーナーも設けています。 奈良新聞HP
 
書評では「新しい古代史像を提示する、画期的な書」との、過分のお褒めをいただいています。

 「アカデミックな歴史学への批判がやや感情的になっている」とのご指摘もありがたく、今後の指針とさせていただきます。

 ありがとうございました。


奈良新聞、2016年8月15日(クリックで拡大)

2016年8月17日水曜日

靖国神社

 8月15日(月)に誘われてある会の靖国神社参拝にご一緒した。
終戦記念日に靖国神社に参るのは2度目だが、昇殿参拝は15日は初めてである。
この会は例年この日に参拝しているそうで、時間も拝殿に登っている間に12時を迎えるというちょっと特別なスケジュールである。

 12時前になると、ラジオが流れて全国戦没者追悼式の様子が聞こえてくる。12時の黙祷にあわせて拝殿でも皆で黙とうをささげ、天皇陛下のお言葉をお聞きした。ラジオが終わると相撲甚句の披露があった。
 そのあと、渡り廊下を歩いて本殿に上がり、整列してお祓いを受け、代表者の方が玉ぐしをささげた。この日はいつもより涼しく、静かな印象だったが、厳粛な気分になったひと時である。

 靖国神社にお参りすることは、私も毎年夏に参っているわけでもないし、個人個人の気持ちでやればいいことだと思っている。しかし、国の責任者になっている人たちや過去の戦争にかかわりのあった組織(例えば新聞社)のトップなどは、必ず行くべきであろうと考えている。もちろん公人としてである。
 靖国に祀られている御霊は、皆が見事な戦死を遂げた人ではない。本当は逃げたかったが逃げられなかった人もいただろう。下手な作戦で部下を大勢死なせた指揮官もいただろう。しかし共通していることは、彼らに国が戦えと命じたこと、そして死んだら靖国に祀ると約束したことである。これは厳然たる事実なのだ。その約束を果たさねばならないし、戦争にかかわった組織のトップは過去のその組織の行いに思いを致さねばならない。それが組織を預かる者の務めだと思う。

 こう考えれば、先の戦争を最も強力に推進した朝日新聞などは、少なくとも役員全員が参拝するのが当然である。もちろん、誰が祀られているから行かないとか、公人ではなく、とかいう議論が見当外れであることは明らかだ。また、別の慰霊施設、などという話も本末を忘れている。主役は祀られている御霊であり、御霊と国との約束なのである。

2016年8月6日土曜日

神話のゆりかご

日本神話には宇宙の始まりから男女による命の営み、太陽、月、自然を包括し、人間の世界に至る壮大なドラマが描かれている。こうした神話が後の世に創作された、そのモデルはだれそれだ、といった話がよく聞かれるが、そんな話に真実は宿っていない。こんな神話は人間と自然の、気が遠くなるような長い営みから生まれてきたものである。

日本神話は神武天皇が大和の地に歩を進められた時、彼の心の中に一族の伝えとして既にお持ちになっていたであろう。すなわち、彼の一族の故地はこんな神話を生み出すのにふさわしい風土を持った場所でなければならない。
それはどこだろうか?私の今思っている候補は、宮崎の市街から6㎞ほど西北にある生目の丘のあたりである。(地図の+印のすぐ上)
ここには、九州で最も古い生目古墳群がある。垂仁天皇が270年ごろに九州に6年も滞在されたとき宮崎駅のそばに仮宮を置いたと日本書紀は伝えるが、その時この丘の周りの水田を開発したと私は考えている。古墳はその時の記念碑である。

垂仁天皇は第12代であるが、神武天皇からの口伝でこの辺りが故地であることを伝えられていたのではないだろうか。
ここに挙げた2つのCGはいずれも生目の丘から見た東と西の風景で、日の出、日の入りの様子だ。雄大な海岸線から登る太陽、そして年に2度春と秋にちょうど高千穂の峰に沈む太陽の様子である。この風土から、天孫降臨とツクヨミに象徴される暦の概念が生まれたのであろう。