日本神話には宇宙の始まりから男女による命の営み、太陽、月、自然を包括し、人間の世界に至る壮大なドラマが描かれている。こうした神話が後の世に創作された、そのモデルはだれそれだ、といった話がよく聞かれるが、そんな話に真実は宿っていない。こんな神話は人間と自然の、気が遠くなるような長い営みから生まれてきたものである。
日本神話は神武天皇が大和の地に歩を進められた時、彼の心の中に一族の伝えとして既にお持ちになっていたであろう。すなわち、彼の一族の故地はこんな神話を生み出すのにふさわしい風土を持った場所でなければならない。
それはどこだろうか?私の今思っている候補は、宮崎の市街から6㎞ほど西北にある生目の丘のあたりである。(地図の+印のすぐ上)
ここには、九州で最も古い生目古墳群がある。垂仁天皇が270年ごろに九州に6年も滞在されたとき宮崎駅のそばに仮宮を置いたと日本書紀は伝えるが、その時この丘の周りの水田を開発したと私は考えている。古墳はその時の記念碑である。
垂仁天皇は第12代であるが、神武天皇からの口伝でこの辺りが故地であることを伝えられていたのではないだろうか。
ここに挙げた2つのCGはいずれも生目の丘から見た東と西の風景で、日の出、日の入りの様子だ。雄大な海岸線から登る太陽、そして年に2度春と秋にちょうど高千穂の峰に沈む太陽の様子である。この風土から、天孫降臨とツクヨミに象徴される暦の概念が生まれたのであろう。
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