『よみがえる神武天皇』では日本書紀が伝える「神武東征」のルートとプロセスに私が年代修正を行って考古学の成果を取り入れ実像を再現しています。
これを要約すると狭野の尊(神武天皇)は、
- BC44年 日向を発つ。
- 次年、筑紫、安芸を経て吉備に至る。
- 吉備で3年間兵を集め、武器と船を整える。
- BC40年 吉備を発ち、河内に至り生駒でナガスネヒコに撃退される。
- 紀伊半島を迂回して伊勢に上陸、山中を難行のあと宇陀を平定。
- ナガスネヒコとの決戦に勝利して大和平定。
- BC37年 初代天皇に即位。
ということになる。
日向を出たときは東征軍は数十人規模であり、吉備で軍勢を整えて数百人となったと想定している。
このプロセスを改めて振返ると、これが情報の乏しい時代に、手探りで進みながら極めて着実で優れたプロセス管理がされていることに気付く。加えて、所々で幸運にも恵まれている。逆にいえば、あまりに出来すぎているのである。
この点を突いて、「この説話は後世の作文」という批判もあり得ると思う。(あまりこういう指摘はないが)
しかし、考えてみれば、スタート段階では神武天皇もまた数限りないチャレンジャーの一人であったのである。その中で最大の成功者となったのが彼である。
甲子園の高校野球大会の勝者は一校だが、その陰には何千もの優勝できなかった学校がある。
「神武東征」が出来すぎている、との印象を与えるのは、甲子園優勝校の足跡を逆にたどった時、それは必然と幸運がいくつも重なったものであるとの印象を受けることと同じであろう。
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