2016年8月21日日曜日

神武天皇 1


 拙著『よみがえる神武天皇』では、新しい神武天皇像を提示した。
彼は23歳で故郷、日向をわずかな仲間と共に出発し、東征プロジェクトを着実に進めた。大和盆地に入るところで様々な艱難も味わうが、それらを乗り越え、7年後に大和橿原の地で初代天皇に即位する。

 池上彰さんは参議院の選挙特番で三原じゅん子さんに、「神武天皇は架空の人物と教科書でもされていますよ」と迫っていたが、これは池上さんの現状認識が誤っている。現状は「教科書のどこを見ても神武天皇は出てきませんよ」というのが正しい情報だ。(実はもっと若い)→

 池上さんが育った時代はまさに、教科書から古代の天皇を悪しき権力者として追放する運動が盛んで、家永三郎さんなどは延々と政府と「教科書裁判」を闘っている。

 しかし、現在の歴史関係の人で「神武天皇は架空の人物」と言い切る人は少ないように思う。
「神武天皇的な人は大勢いた」とか「倭国大乱の原因」とか「邪馬台国東遷が神武伝承となった」とか、様々な説の要素として「神武天皇」を取り込む人が多い。だがやはり、個人としての神武天皇がいたか?となるとあまりみなさん肯定的ではないのだ。

 大勢の人が我こそは「神武天皇」になろうとしてチャレンジした、というのは私もそう思う。しかし、そんな人々の活動を後世の人が一人の英雄に仮託して物語を作った、というもっともらしい話には乗る気がしない。(ヤマトタケル、神功皇后でも同じような説明がされる)

 戦争直後に浜松で本田技術研究所という町工場が立ち上がった。今日、なお二輪車製造世界一のホンダ技研の前身である。最初、進駐軍放出の小エンジンを自転車に括り付けたような「原付」を製造していた。

 それが発展して今日のホンダ技研になったわけだが、実は戦争直後、浜松には同様の会社が雨後のタケノコのようにできて200数社もあったのである。他のそんな会社がその後どうなったか、今となってはほとんどわからない。だがホンダ技研についてはだれでも知っているし、社史かWikipediaでも開けば会社の歴史も詳しくわかる。なぜか?生き残って世界的な大会社になったからである。

 本田宗一郎さんは若き日の様々な苦労話を機会あるごとに話されている。だからそんな記録も残っている。神武天皇の記録が残っているのも、彼が勝ち残った上に彼の建てた大和の国が後世大発展したからである。彼も若き日の苦労話を機会あるごとに話したことであろう。

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