2016年9月30日金曜日

邪馬台国図書館



 人間いくつになっても、世の中には様々な知らないことがあるものだ。

 先日の全邪馬連での発表のあと、会の幹部の方に話しかけられた。
自己紹介をされたあと、簡単なしおりで説明されたのが、その方は千葉で自前で邪馬台国図書館という私設の図書館を館長として運営されているという。古代史関係の書籍が5,000冊以上あるそうだ。お話の趣旨は、その図書館に拙著『よみがえる神武天皇』を寄贈してくれないか、とのことであった。たまたま余部を持っていたので、よろこんで寄贈させて頂いた。

 そんなことも忘れかけていた昨日、先日の館長さんから丁寧なお手紙を頂戴し、HPに掲載した旨もお知らせ頂いた。拝見すると過分のお言葉で紹介してくれておりました。ありがとうございました。

 自分でアパートをそのために借りて、こんな活動をしている方もいるんだと、感心したところです。


邪馬台国図書館HP:
http://yamataikokutosyokan.web.fc2.com/

拙著『よみがえる神武天皇』の紹介:
http://yamataikokutosyokan.web.fc2.com/heya0/kantyou89.htm


2016年9月29日木曜日

神武天皇 5

 神武天皇はBC44年(日本書紀ではBC667年)に日向を発ったわけだが、この時の様子はどのようなものであったか?

 神武天皇の故郷としては私はひとつは宮崎市郊外の生目の丘、もうひとつはもっと内陸に入った高原町(たかはる)を考えている。両者に共通するのは距離は違うがどちらも西に高千穂の峰が望め、8/6に紹介したダイヤモンド高千穂(山頂に夕陽が沈む)が望めることである。

 このどちらかで育った神武天皇(佐野の尊)は近隣の朋輩を集めて「美しき国」を目指して旅立ったのである。

 しかしこの頃(弥生中期)の日向は、北部九州に比べて稲作が広範囲には拡がっておらず、弥生遺跡も非常に少ない。

 すなわち「東征軍」のスタートも、まことにささやかなものであったと考えられるのである。


2016年9月28日水曜日

邪馬台国 5

 邪馬台国問題は日本の古代史の中での最大の謎だという見方が一般的である。邪馬台国がどこにあったのか、後の大和朝廷とどうつながるのか、この問題の見通しがつけば、古代日本の国家形成についてもその姿が見えるであろう、という見方である。

 ところが、これはいわば日本のことだけを考えて、日本史の中での邪馬台国の位置づけを問うているのであるが、ちょっと視点を変えて、その頃の中国の、あるいは魏の国にとって一体邪馬台国とは何なのか、ということを述べてみよう。

 この時代は中国は魏、呉、蜀が鼎立するいわゆる三国時代であり、覇権を争っていたことは三国志ファンにはよく知られている。卑弥呼の時代は魏を建てた曹操はすでに亡く(220年亡)後を息子の曹丕、孫の曹叡が継いでいた。

 魏志倭人伝が含まれる三国志を書いた陳寿は魏、呉、蜀それぞれを別建てとし魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻から成っている。


2016年9月23日金曜日

邪馬台国連絡協議会で発表しました。

 全国の古代史民間研究者の大連合である「全国邪馬台国連絡協議会」という組織があります。9月19日(月、祝)の会員発表会で「春秋2倍暦による日本書紀の復元」と題して発表致しました。

 拙著『よみがえる神武天皇』のベースとなっている考え方であり、これによってこれまで古代史にかかっていた霧が晴れると考えています。

 何とか一般常識になるようアピールしていきたいと思っています。
プレゼン資料表紙


発表映像(30分)

2016年9月21日水曜日

週刊新潮

今日(9月21日)発売の週刊新潮が、拙著『よみがえる神武天皇』の紹介を載せてくれている。(P. 64、WATCH & TRYのコーナー)

 「副題に、日本書紀の暗号を読み解く、と謳っているように本書は日本書紀を道標としながら、日本の古代史を抜本的に見直そうと試みた労作である。」とのコメントを載せてくれている。

 過分のコメントをいただきまして、感謝しております。


2016年9月16日金曜日

邪馬台国 4

 「邪馬台国」なる国は、西晋の歴史家 陳寿が書いた「三国志」の中の「魏志倭人伝」に登場する。この「三国志」はちくま文芸文庫で8冊にもなる大部なもので、日本人に親しまれている三国志演義のもとになったものだ。魏、呉、蜀の興亡を詳しく述べているものだが、その中の「魏志倭人伝」はわずかに2,000文字に過ぎない。原稿用紙5枚である。

 日本に関係するということで魏志倭人伝に注目する本と読者が日本には多いため、この部分のみに多大な精力を費し、複雑怪奇な珍解釈が数多く出回っている。まさに木を見て森を見ずという印象が強い。

 そもそも、中国(支那)の知識人には、我々が潜在的に期待しているような日本に対する重要視など現在もないし、この時代にはまさに単なる「東夷」(東の野蛮人)の一つに過ぎない。その東の野蛮人のために複雑怪奇なパズルを作るほど陳寿先生はヒマではない。

 では、なぜ陳寿は「魏志倭人伝」を書いたのか?


2016年9月14日水曜日

神武天皇 4

 BC44年に、日向の地を仲間と共に旅立った若者が7年の歳月をかけて大和の地に一国を建てる、というのが「神武東征」である。その実像はいかなるものであったのか?

 日向を出たあとの足どりと行動を見て、神武青年(狭野尊、さののみこと)がどんな人間であったか、推測してみよう。

 まず、基本として彼が持ち合わせていたのが情報収集力と、それに基いた構想力である。極めて情報の乏しい時代に「大和の国建国」という大目標を立て、そこに向かって常に新しい情報を吸収しながら漸進していったことがそれを示している。

 次にしっかりした計画力と実行力があったことがあげられる。
 大目標に対して、着実に進んでいくためには、それを各段階に落した短期計画を作り、実行していくことが必要である。彼の足取りは実に着実で、理に適った順を踏んでいる。

 更に見てとれるのが、並外れた統率力と吸引力である。最初故郷の友と兄弟を率いて旅立ち、吉備で3年間留まって大和進攻ができるだけの軍勢、装備を用意している。それには、人を引きつけ、計画を納得させる説得力や信望がなければならない。

 そしてこれらの基礎となっているのが、日向での幼い時から培った体力、知力、地勢眼、サバイバルスキル、などの基礎能力であろう。

 こうした能力と条件を持った青年が、懸命に目標に向かって突き進んだのが「神武東征」である。しかし、他の誰でもなく、彼が後世「神武天皇」と呼ばれるようになったのは、彼の考えでは天照大神のご加護、別の呼び方でいえば大きな運があったからだ。


2016年9月13日火曜日

邪馬台国 3

日本人が国内での戦争のことを考える場合、どうしても戦国時代の群雄割拠のイメージが潜在的にあると思う。ところが弥生時代と戦国時代では人口規模が大幅に違っている。

 江戸時代の人口はざっと3,000万人といわれるが、江戸初期の水田開発で人口が急増しての3,000万人なので、戦国時代では1,500万人前後と考えておいてよかろう。であれば、各県ごとにざっと20万とか30万人の人口はいるのである。

 それに対して弥生時代は、日本全体で50万人とすれば、各県ごとに1、2万人ということになるであろうが、それが数十人から多くて数百人のムラに分かれて細く点在しているということである。そんな状況で「群雄割拠」というような強い地方勢力が、西日本各地に存在できるか?そして、おそらく各県のレベルでまとまって相争うことなどありえるであろうか?

 すなわち、人口のレベルを考えれば西日本全体が乱れて相争うなど、やはりリアリティがないのである。

 ところが、これが北部九州の地域紛争と考えると、突然リアリティは高まる。北部九州では稲作が早く始まったことから、人口密度も比較すれば高く、吉野ヶ里のような集落が密度高く存在したと考えられる。こんな範囲での紛争であれば、大変現実的な話となるのである。


神の道 4

 日本の神道は果たして宗教と言えるのだろうか?

 神を祀るということだから、宗教だといえるのかも知れないが、八百万神(やおよろずのかみ)と言われるように、太陽や月から火の神、風の神、動物、巨木、巨岩、偉人まで実に幅広く祀られている。

 そして、教義らしきものがない「古事記」「日本書紀」が教典となっている場合があるが、両書とも必ずしも教えを説いたものではない。

 あるものといえば、神社があって様々な神を祀るという習慣があり、様々な願いを持ちよる「信者」(?)がいる、ということだろう。

 多くの人が大勢が日本では初詣などに出かけるが、「私は神道の信者です」と公言する人は極めて少ないのである。信者とは思っていないが彼らは様々なお願いをする。以前は私はそこに何か不純なものを感じていたことがある。

 だが最近、それも神道の本質と考えるようになった。


2016年9月7日水曜日

邪馬台国 2

 239年に邪馬台国から卑弥呼は魏に遣いを送ったと倭人伝は伝えている。これはおおよそ弥生時代の末期、あるいは大和時代(古墳時代)のはじめである。それなら倭国が乱れたのは弥生時代ということになる。

 ここで前回述べた倭国の乱が西日本全体か、それとも九州北部の局地紛争か、を考えるときに、非常に大きな問題は、果してこのころ、どれぐらい日本列島に人間がいたのか、という点である。

 人口の推定は記録がなければ非常に難しい。倭国の乱は中国では後漢末に当る時期であるが、漢にはすでに戸籍があったことから割合正確な人口把握が可能だ。一般に後漢末にはなんと5000万人ほどの人口があったという。

 現在日本の人口は中国のざっと10分の1であるから、漢が5000万人なら弥生の日本には500万人ほどもいたのであろうか?いや、どうもそんなにはいなかったようだ。奈良時代の戸籍からだいたい奈良時代で300~500万人ぐらいである。農業生産力のついていない弥生時代では数十万人(50万前後か)ぐらいの推定が妥当性がありそうである。実際このころの大都市である佐賀の吉野ヶ里遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡でも人口はわずか500人前後と見られているのである。

 さて、人口が数十万人しかいないとして、果して西日本全体で戦争するということが可能であろうか?


2016年9月6日火曜日

邪馬台国 1

 邪馬台国問題は日本の古代史の最大の謎とされている。私は、邪馬台国はもし本当に存在したとしても北部九州の一勢力に過ぎなかったと考えている。だから「最大の謎」とは思えないが、古代史マニアの間では常々いつ果てるかもわからない議論が続いている。

 邪馬台国のことを記録しているのは、三国志の中の「魏志倭人伝」であるが、そこに書かれている邪馬台国連合成立のプロセスは、

「倭国全体が乱れた」→「女王を共立した」→「邪馬台国の女王卑弥呼が倭国の統率者になった」、というものである。

 ここで逆に考えると、邪馬台国が九州か、近畿かによって「倭国全体が乱れた」という内容も変わってくるだろう。九州北部の奴国なども邪馬台国連合に入っているのだから、もし近畿に邪馬台国があれば「乱れた」のは西日本全体ということになる。一方、九州にあったなら九州北部の地域紛争ということとなろう。

 さて、どちらがリアリティがあるか?


2016年9月5日月曜日

神の道 3

神道と稲作は切っても切れない関係と言えるだろう。
いやもっと踏み込んでいえば、「稲作りと神道は一体である」とも考えられる。

 伊勢神宮では、毎日天照大神と豊受大神に食事をお供えする儀式(日別朝夕大御饌祭)を含めれば、年間1500回に及ぶ儀式があるという。そして、その儀式の中でも、多くのものが稲作に関わる内容なのである。

主なものを取り上げると:

1月11日 一月十一日御餞
神々が年に一度天照大神と御饌(みけ)を共にする。


2月17日~23日 祈年祭
「としごいのまつり」とも言い、春の耕作始めの時期にあたり、五穀の豊穣をお祈りする。

4月上旬~ 神田下種祭
御料米の忌種(ゆだね)を神田に蒔くお祭り

5月14日 風白祭
天候が順調で、五穀の稔りが、豊かであるようにお祈りする。

6月15日~25日 月次祭
皇室の弥栄、五穀の豊穣、国家の隆昌、並びに国民の平安を祈願する。

6月24日 伊雑宮
御田植祭 伊勢神宮の別宮の神田で行われる田植えのお祭り

9月上旬 抜穂祭
御料米の初穂を抜き奉るお祭り

10月15日~25日 神誉祭
の実りに感謝し、皇室の弥栄、五穀の豊穣、国家の隆昌、並びに国民の平安を祈願する、伊勢神宮で最も重要な儀式。

11月23日~29日 新嘗祭
宮中で新嘗祭が行われる際、神宮では天皇陛下の幣帛を奉る奉幣の儀を行う。

12月15日~25日 月次祭
6月の月次際に順じます。


 すなわち、伊勢神宮の年間行事は、稲作のスケジュール管理表そのものと言っても過言ではないのである。

 「神道と米作りがセットになって大和の国によって広められた」という私の仮説は、至極当然のことを述べているだけなのかもしれない。

 (写真は伊勢市ホームページより)