239年に邪馬台国から卑弥呼は魏に遣いを送ったと倭人伝は伝えている。これはおおよそ弥生時代の末期、あるいは大和時代(古墳時代)のはじめである。それなら倭国が乱れたのは弥生時代ということになる。
ここで前回述べた倭国の乱が西日本全体か、それとも九州北部の局地紛争か、を考えるときに、非常に大きな問題は、果してこのころ、どれぐらい日本列島に人間がいたのか、という点である。
人口の推定は記録がなければ非常に難しい。倭国の乱は中国では後漢末に当る時期であるが、漢にはすでに戸籍があったことから割合正確な人口把握が可能だ。一般に後漢末にはなんと5000万人ほどの人口があったという。
現在日本の人口は中国のざっと10分の1であるから、漢が5000万人なら弥生の日本には500万人ほどもいたのであろうか?いや、どうもそんなにはいなかったようだ。奈良時代の戸籍からだいたい奈良時代で300~500万人ぐらいである。農業生産力のついていない弥生時代では数十万人(50万前後か)ぐらいの推定が妥当性がありそうである。実際このころの大都市である佐賀の吉野ヶ里遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡でも人口はわずか500人前後と見られているのである。
さて、人口が数十万人しかいないとして、果して西日本全体で戦争するということが可能であろうか?
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