2016年12月1日木曜日

「古代史シンポジウム」への疑義 2

<魏志倭人伝とは>

 今日の日本の古代史関連の学会や論壇で、「魏志倭人伝」は格別の扱いを受けている。なにしろ卑弥呼問題が「古代史最大の謎」とされているわけだから、その卑弥呼のことを書いている唯一の一次資料である魏志倭人伝が尊重されるのも当然かも知れない。

 しかし、やや滑稽なことであるが、実際は魏志倭人伝は実際は魏志、ないし、それを含む「三国志」全体のごくごく一部に過ぎない。そのごく一部の文章を、場合によってはそれだけを精読に精読を重ね、一字一句の意味を万言を量して解釈を行ったり、字句の向こうにある意味を解釈しようとして(空虚な?)時間を費やしているのである。

 あくまで、魏志倭人伝は、魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻、全65巻のうちのわずか一巻である魏志東夷伝にあるもので、さらにその東夷伝の中にある高句麗伝や韓伝、など9つの章がある中の倭人の章のことなのである。加えて「東夷」という中華から見た蛮人(東夷、西戎、南蛮、北秋)のことを書いた唯一の巻の最後に書かれたものである。

 いわば、雑誌の「巻末閉じ込み付録」に過ぎない。


2016年11月17日木曜日

森下 豊 橿原市長

 神武天皇を祀る橿原神宮と畝傍御陵は奈良の橿原市にある。神武天皇が東征ののち、初代天皇に即位し、皇居を置かれた地と伝えられている。私の卒業した畝傍高校もこの市内だ。

 こういったご縁もあり、本を出版して少しした頃、市長の森下豊さんに手紙をそえて拙著を郵送して謹呈差し上げた。少し時間も経って、そんなことも忘れかけていた先週のこと、秘書の方から電話があって「来週そちらに市長が行く予定なんですが、お会いできますか?」とのことである。「もちろん、喜んで」とお答えしたところ、今秋お会いする手筈となり、火曜日にご訪問頂いた。

 私とほぼ同世代だが、3期日を務めておられ、ハツラツとして油が乗っている印象である。橿原市政のこともいろいろと話して頂いたが、来年には八木駅に市庁舎兼上層階がホテルというパイオニア的な建物がたつという。ちょっと驚いたのはそれが10階建てだが、奈良では最も高い建物になるそうである。景観から高い建物は規制されているのである。

 市長は有難いことに拙著を読了していただいたそうで、かつあちこちで話のタネとして話してくれているというのである。やはり、地元として神武天皇への思いは強くもっておられ、今後も日本の発祥の地として様々な取り組みをしていきたいとおっしゃっていた。

 本を書いたことで、こんなご縁も広がるものと、改めて納得した次第である。せっかくのご縁を大切にしたいと思う。


2016年11月14日月曜日

「古代史シンポジウム」への疑義 1

 拙著『よみがえる神武天皇』では、日本書紀を春秋2倍暦仮説で読み解くことで紀年を正し、その年表(新紀年表)に考古学の成果を重ねていくことで、大和の国が成立する姿を描きだした。

 しかし残念ながら(当然でもあるが)依然として古代史学会や歴史教育では私が「土器と墓と卑弥呼」の古代史と呼ぶ状況が続いている。

 今回まさにタイムリーというべきか、角川文化振興財団から古代史シンポジウム「発見、検証、日本の古代」という昨年開催されたシンポジウムをまとめた本が出版された。

  内容を見てみると、基本は2本柱で「魏志倭人伝」の解釈の深化と考古学の成果を基にし、その柱の上に古代史像を但み立てようとしている、まさに「土器と墓と卑弥呼」の古代史である。

 よい機会であるから、この場所でこの本の内容を採り上げ徹底的な批判を加えてみようと思う。

乞う、ご期待!!!


2016年10月21日金曜日

神武天皇 7

 神武東征は作り事である、と評する「難クセ」の中にたとえば、この話は神功皇后が難波で前妻の2人の皇子を討つ話と似ている、とか、天武天皇の壬申の乱の軍事行動をモデルにしているから、とかいうものがある。

 しかし、神功皇后のケースと神武東征の共通点といえば、船で瀬戸内海を東進した、というぐらいのことだ。九州から近畿へ行くなら誰でも瀬戸内海を通るだろう。四国の南を通ったといえば奇抜だが、合理性がない。

 壬申の乱との比較で、どちらも現在の榛原を通ったところが似ている、という批判をしている人もいる。だが、奈良盆地の東南側で軍事行動をすれば榛原を通るしかないのは地図を見れば明らかなのだ。(私はこのあたりの地形はよく知っている。)

 そもそもやや成り行きで始った神功皇后の東進や壬申の乱に比べて神武東征ははるかに計画的で合理的な内容になっている。これが後世のフィクションであったなら、ものすごい創作力を持ったライターを必要とするが、日本の歴史上そんな創作力のある人間を見たことがない。

 なぜ、そんな計画性と合理性があるか?

 それは、この話が事実であり、かつ、万人に一人の成功者の物語だからである。


2016年10月20日木曜日

神武天皇 6

 ところで神武天皇は本当に実在したのか?

 参議院選のあとの特番で、池上彰氏は「神武天皇は教科書でも架空の人物とされている」と断言している。8月の朝まで生テレビでは田原総一朗氏が「あんなものデッチ上げだ」と大声で存在を否定した。こういうマスコミ界の大物が断定するのだからそれが正しいんだろうと視聴者が考えるのも無理はない。

 しかし、このお2人、特に古代史について自分で考えたり調べたりしたわけではない。池上氏は非常に幅広いジャンルについて、教科書的な内容をわかりやすく解説することの達人である。
 しかし、真実の扉を開く、というような切り込みは、これまでやったことがない。彼のいう「教科書でも架空の人物とされている」というのは事実ではなく「教科書には神武天皇は載っていない」というのが正確である。

 田原氏は様々な分野に鋭く切り込んできた経歴を持っているが、軍国少年から価値観の逆転を経験した反動ででき上った歴史観をそのまま引ずっている。

 要するに、彼らの頭の中にあるのは、戦後の「皇国史観否定」の論壇ででき上った神武否定論であり、前世紀の遺物、というべき内容なのである。
 確かに、「紀元前660年に即位した」といわれれば、「嘘だろう」と論壇するのも道理があろう。しかし、これは春秋2倍暦によって紀元前37年の即位に修正するだけで、現実味を帯びた話となる。

 後に残るのは左傾学者が並べ立てた「難クセ」の山だけである。こんなところに真実があるはずがないのである。



2016年10月19日水曜日

春秋二倍暦仮説について

 日本書紀という書物がある。
名前は多くの人が知っているだろうが、実際読んだことがある人は極めて少数だろう。日本全体では100人にひとりも読んでいないと思われ、1,000人にひとりぐらいではないかと想像している。内容が近い書物の古事記は結構人気があり、翻訳本、解説含め多くの出版や、古事記をもとにした演劇なども作られている。

 日本書紀と古事記の大きな違いは、日本書紀が日本の「正史」であり、奈良時代初期の日本の国を挙げて編集された書物であるのに対して、古事記は稗田阿礼が話したことを太安万侶が記述したという、2人で作った書物であることだ。

 古事記は詩(うた)である、とも言われ、文学性が高く歌が多く掲載されている、民族の叙事詩である。

 これに対して日本書紀はどうも人気がない。それだけではなく、ある方面からは「ねつ造された歴史書」「勝者(天皇家)の歴史」「中国史書に劣る荒唐無稽な伝承」といった罵詈雑言があびせられるかわいそうな存在である。


2016年10月7日金曜日

田母神裁判傍聴記 2

法廷に入ると既に傍聴席から向かって右に検事側2名(男女)、左に弁護側6名(前列4名、後列の二人は多分弁護側)が向かい合う形。
前の判事席に3名(真ん中男性の裁判長、左右に判事が一人づつ、男女)がならんでした。
中央の椅子に前を向いて一人座っている。今日の証人であった。そこに田母神さんが入ってきて、弁護団の前の席に座った。

この日は会計責任者の鈴木新さんへの証人尋問である。この人はすでに公職選挙法違反で執行猶予付きの有罪判決を受けている。
最初に検事からいくつか質問があって、そのあと弁護人からの質問に移った。
主任弁護人はずいぶん太った人で顔もややコワモテ、全体の印象は紳士風とはいいがたいが、しゃべりだすとさすが弁護士で、理詰めにその時の状況を聞き出していく。

質問は2014年2月9日の選挙の後に田母神さん、選対本部長の水島さん、事務局長の島本さん、会計責任者の鈴木さん(証人)が、どう打ち合わせをして、意思決定して、お金が配られたのかを確認する、ということである。
しかし、一度聞いたことについても、「記憶で言っているか、後からつじつまを合せているのか?」というような揺さぶりをかけるので、なかなか話は進まない。
弁護士も体力勝負の所があると思った。

これまでの公判でどんな話があったのかよくわからないので、全体像が見えないが、今回は水島さんの了解が取れたのかどうか、という部分に時間が費やされた。鈴木氏は自分は納得していると思っていた、というようなことを何度も話していた。
しかし、これは田母神さんの問題とは直接関係ないので、外堀を埋める作業なのだろう。

今回の裁判で一番問題なのは、島本さんという事務局長だ。この人が「配ろう」と言い出したわけだが、秘書暦20年のベテランである。なぜそんな自殺行為ともいうべきことを始めたのか?
しかもいまだに黙秘を続けているという。次回証人喚問予定だそうだが、法廷でも黙秘をするのか。

事件の全貌と背景はまだわからない。
終わったのは12時近くになっていた。法廷の中は本当に暑かった。

2016年10月6日木曜日

田母神裁判傍聴記 1

 このブログの内容とは方向が違うが、昨日生まれて初めて「裁判」というものを傍聴した。こうした経験がない人も多いだろうから様子など説明しておこう。

 傍聴したのは、田母神俊雄さんが被告となっている、平成26年の都知事選での公職選挙法違反事件である。

 田母神さんは航空幕僚長という航空自衛隊のトップだった人である。戦前の日本について全否定することに異をとなえる論文をAPA懸賞に応募して最優秀となったことが問題となり、職を更迭されたが、そのことで却って「時の人」となり盛んな講演、マスコミ出演、出版で相当な有名人となった。その勢いをかって前々回の都知事選に出馬、当選はならなかったが、60万票という大きな票を獲得している。

 ところが、この時の選挙で集まった政治資金(1億数千万円)のスタッフによる使いこみが発覚し、その調査の過程で、運動員に公職選挙法に違反して報酬を配ったということで今春起訴されている。ご本人は4月に逮捕されたまま、9月末まで何と半年に渡って東京拘置所で身柄を拘束され、ようやく先週仮釈放となったのである。

 私は、今、古代史を正す、ということを目標にしているが、これは「日本史を正す」ことの一環であり、田母神さんのこれまでの活動についてはそれなりの共感を持ってながめていた。それだけに今回の「事件」についてはその推移と背景について興味を持ち続けている。昨日は、これまで裁判というものを見たことがない、ということもあり一度実際に見てみようということで出掛けた次第。

 さて、裁判であるが、今回は第5回公判とのことだ。事前に10月5日午前10:00開廷で整理券は9:30に来ている人での抽選と聞いていたので9:15ごろに霞が関の東京地裁へ出向いた。

 地裁の入口で聞くと「傍聴の人はあっち」といって入口向かって左を指さされた。そこに整理ワクで区切ったスペースがあり番号の入った抽選券を受取る。13番だった。「意外に少ないんだな」と思いながら待ちスペースで時間まで待つ。係員に聞くと今日の傍聴席は28席あるという。その時点ではまだ定員以下だったが、ポツリポツリと人が来る。来た順ではないので慣れている人はギリギリに来るのだろう。

 結局、最後にバタバタと人が増え40人近くになった。抽選である。9:30に締切ってガイドテープでスペースを閉じ、「パソコンで抽選します」と伝えられる。少し時間を置いて、プリントアウトした表が前のホワイトボードに張り出された。13番は入っていて当選である。その場で外れた人は券を回収され、当選者は10時までに4階の法廷に行くように指示された。

 しかし、裁判とは大変なことだ。この抽選に約10人近い係員が関わっている。もっと大規模な列が出来る公判も時々報道されるが、手続きを管理するにも大きなコストがかかるだろう。

 そのまま本館入口へ行き入ろうとするとまず手荷物検査がありバッグのX線検査を通過する。4Fまでエレベータで上ると法廷前のスペースで再度検査である。「手荷物は携帯電話含めお預け下さい。筆記用具とメモは持込んで結構ですが、録音、写真等はできる機械は持込めません」ということで、手荷物を預けたあと金属探知機で体の前後をチェックされ、音が鳴れば触診する。私は腕時計が反応し、シャツをまくって時計を示した。

 検査が終ったところで開廷15分前ぐらいだっただろう。列に並んで開廷を待つ。しかし、10月というのに随分暑かった。10月に入ったらエアコンはつけないのか、設定が高いのか、待つ間も汗ばむ感じだ。10時3分前ぐらいに扉が開き、ようやく法廷に入った。

(以下は明日に)


2016年10月4日火曜日

神の道 5

 神道のもともとの姿は必ずしも神社があったとはいえない。
山や磐座が神のいるところとしてマツられたのが初期(いつが初期かわからないが)の神道であったと思われる。

 その場所に集団の人々があつまって神を祀った。その基本は豊作を願うことであり、豊作を感謝することだったのである。そして、その「願い」のために、人々が心をひとつにして神に祈るのである。

 これは、宗教というより生産して生きること、そのものである。この教えを信じる、信じないという選択肢はその構成員にはない。そこで生活することと同義なのである。

 神道のルーツがそうであるなら、今の生産生活から離れた神社でも、「幸せを願う」ことが祈りの中心であることは当然であろう。


2016年9月30日金曜日

邪馬台国図書館



 人間いくつになっても、世の中には様々な知らないことがあるものだ。

 先日の全邪馬連での発表のあと、会の幹部の方に話しかけられた。
自己紹介をされたあと、簡単なしおりで説明されたのが、その方は千葉で自前で邪馬台国図書館という私設の図書館を館長として運営されているという。古代史関係の書籍が5,000冊以上あるそうだ。お話の趣旨は、その図書館に拙著『よみがえる神武天皇』を寄贈してくれないか、とのことであった。たまたま余部を持っていたので、よろこんで寄贈させて頂いた。

 そんなことも忘れかけていた昨日、先日の館長さんから丁寧なお手紙を頂戴し、HPに掲載した旨もお知らせ頂いた。拝見すると過分のお言葉で紹介してくれておりました。ありがとうございました。

 自分でアパートをそのために借りて、こんな活動をしている方もいるんだと、感心したところです。


邪馬台国図書館HP:
http://yamataikokutosyokan.web.fc2.com/

拙著『よみがえる神武天皇』の紹介:
http://yamataikokutosyokan.web.fc2.com/heya0/kantyou89.htm


2016年9月29日木曜日

神武天皇 5

 神武天皇はBC44年(日本書紀ではBC667年)に日向を発ったわけだが、この時の様子はどのようなものであったか?

 神武天皇の故郷としては私はひとつは宮崎市郊外の生目の丘、もうひとつはもっと内陸に入った高原町(たかはる)を考えている。両者に共通するのは距離は違うがどちらも西に高千穂の峰が望め、8/6に紹介したダイヤモンド高千穂(山頂に夕陽が沈む)が望めることである。

 このどちらかで育った神武天皇(佐野の尊)は近隣の朋輩を集めて「美しき国」を目指して旅立ったのである。

 しかしこの頃(弥生中期)の日向は、北部九州に比べて稲作が広範囲には拡がっておらず、弥生遺跡も非常に少ない。

 すなわち「東征軍」のスタートも、まことにささやかなものであったと考えられるのである。


2016年9月28日水曜日

邪馬台国 5

 邪馬台国問題は日本の古代史の中での最大の謎だという見方が一般的である。邪馬台国がどこにあったのか、後の大和朝廷とどうつながるのか、この問題の見通しがつけば、古代日本の国家形成についてもその姿が見えるであろう、という見方である。

 ところが、これはいわば日本のことだけを考えて、日本史の中での邪馬台国の位置づけを問うているのであるが、ちょっと視点を変えて、その頃の中国の、あるいは魏の国にとって一体邪馬台国とは何なのか、ということを述べてみよう。

 この時代は中国は魏、呉、蜀が鼎立するいわゆる三国時代であり、覇権を争っていたことは三国志ファンにはよく知られている。卑弥呼の時代は魏を建てた曹操はすでに亡く(220年亡)後を息子の曹丕、孫の曹叡が継いでいた。

 魏志倭人伝が含まれる三国志を書いた陳寿は魏、呉、蜀それぞれを別建てとし魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻から成っている。


2016年9月23日金曜日

邪馬台国連絡協議会で発表しました。

 全国の古代史民間研究者の大連合である「全国邪馬台国連絡協議会」という組織があります。9月19日(月、祝)の会員発表会で「春秋2倍暦による日本書紀の復元」と題して発表致しました。

 拙著『よみがえる神武天皇』のベースとなっている考え方であり、これによってこれまで古代史にかかっていた霧が晴れると考えています。

 何とか一般常識になるようアピールしていきたいと思っています。
プレゼン資料表紙


発表映像(30分)

2016年9月21日水曜日

週刊新潮

今日(9月21日)発売の週刊新潮が、拙著『よみがえる神武天皇』の紹介を載せてくれている。(P. 64、WATCH & TRYのコーナー)

 「副題に、日本書紀の暗号を読み解く、と謳っているように本書は日本書紀を道標としながら、日本の古代史を抜本的に見直そうと試みた労作である。」とのコメントを載せてくれている。

 過分のコメントをいただきまして、感謝しております。


2016年9月16日金曜日

邪馬台国 4

 「邪馬台国」なる国は、西晋の歴史家 陳寿が書いた「三国志」の中の「魏志倭人伝」に登場する。この「三国志」はちくま文芸文庫で8冊にもなる大部なもので、日本人に親しまれている三国志演義のもとになったものだ。魏、呉、蜀の興亡を詳しく述べているものだが、その中の「魏志倭人伝」はわずかに2,000文字に過ぎない。原稿用紙5枚である。

 日本に関係するということで魏志倭人伝に注目する本と読者が日本には多いため、この部分のみに多大な精力を費し、複雑怪奇な珍解釈が数多く出回っている。まさに木を見て森を見ずという印象が強い。

 そもそも、中国(支那)の知識人には、我々が潜在的に期待しているような日本に対する重要視など現在もないし、この時代にはまさに単なる「東夷」(東の野蛮人)の一つに過ぎない。その東の野蛮人のために複雑怪奇なパズルを作るほど陳寿先生はヒマではない。

 では、なぜ陳寿は「魏志倭人伝」を書いたのか?


2016年9月14日水曜日

神武天皇 4

 BC44年に、日向の地を仲間と共に旅立った若者が7年の歳月をかけて大和の地に一国を建てる、というのが「神武東征」である。その実像はいかなるものであったのか?

 日向を出たあとの足どりと行動を見て、神武青年(狭野尊、さののみこと)がどんな人間であったか、推測してみよう。

 まず、基本として彼が持ち合わせていたのが情報収集力と、それに基いた構想力である。極めて情報の乏しい時代に「大和の国建国」という大目標を立て、そこに向かって常に新しい情報を吸収しながら漸進していったことがそれを示している。

 次にしっかりした計画力と実行力があったことがあげられる。
 大目標に対して、着実に進んでいくためには、それを各段階に落した短期計画を作り、実行していくことが必要である。彼の足取りは実に着実で、理に適った順を踏んでいる。

 更に見てとれるのが、並外れた統率力と吸引力である。最初故郷の友と兄弟を率いて旅立ち、吉備で3年間留まって大和進攻ができるだけの軍勢、装備を用意している。それには、人を引きつけ、計画を納得させる説得力や信望がなければならない。

 そしてこれらの基礎となっているのが、日向での幼い時から培った体力、知力、地勢眼、サバイバルスキル、などの基礎能力であろう。

 こうした能力と条件を持った青年が、懸命に目標に向かって突き進んだのが「神武東征」である。しかし、他の誰でもなく、彼が後世「神武天皇」と呼ばれるようになったのは、彼の考えでは天照大神のご加護、別の呼び方でいえば大きな運があったからだ。


2016年9月13日火曜日

邪馬台国 3

日本人が国内での戦争のことを考える場合、どうしても戦国時代の群雄割拠のイメージが潜在的にあると思う。ところが弥生時代と戦国時代では人口規模が大幅に違っている。

 江戸時代の人口はざっと3,000万人といわれるが、江戸初期の水田開発で人口が急増しての3,000万人なので、戦国時代では1,500万人前後と考えておいてよかろう。であれば、各県ごとにざっと20万とか30万人の人口はいるのである。

 それに対して弥生時代は、日本全体で50万人とすれば、各県ごとに1、2万人ということになるであろうが、それが数十人から多くて数百人のムラに分かれて細く点在しているということである。そんな状況で「群雄割拠」というような強い地方勢力が、西日本各地に存在できるか?そして、おそらく各県のレベルでまとまって相争うことなどありえるであろうか?

 すなわち、人口のレベルを考えれば西日本全体が乱れて相争うなど、やはりリアリティがないのである。

 ところが、これが北部九州の地域紛争と考えると、突然リアリティは高まる。北部九州では稲作が早く始まったことから、人口密度も比較すれば高く、吉野ヶ里のような集落が密度高く存在したと考えられる。こんな範囲での紛争であれば、大変現実的な話となるのである。


神の道 4

 日本の神道は果たして宗教と言えるのだろうか?

 神を祀るということだから、宗教だといえるのかも知れないが、八百万神(やおよろずのかみ)と言われるように、太陽や月から火の神、風の神、動物、巨木、巨岩、偉人まで実に幅広く祀られている。

 そして、教義らしきものがない「古事記」「日本書紀」が教典となっている場合があるが、両書とも必ずしも教えを説いたものではない。

 あるものといえば、神社があって様々な神を祀るという習慣があり、様々な願いを持ちよる「信者」(?)がいる、ということだろう。

 多くの人が大勢が日本では初詣などに出かけるが、「私は神道の信者です」と公言する人は極めて少ないのである。信者とは思っていないが彼らは様々なお願いをする。以前は私はそこに何か不純なものを感じていたことがある。

 だが最近、それも神道の本質と考えるようになった。


2016年9月7日水曜日

邪馬台国 2

 239年に邪馬台国から卑弥呼は魏に遣いを送ったと倭人伝は伝えている。これはおおよそ弥生時代の末期、あるいは大和時代(古墳時代)のはじめである。それなら倭国が乱れたのは弥生時代ということになる。

 ここで前回述べた倭国の乱が西日本全体か、それとも九州北部の局地紛争か、を考えるときに、非常に大きな問題は、果してこのころ、どれぐらい日本列島に人間がいたのか、という点である。

 人口の推定は記録がなければ非常に難しい。倭国の乱は中国では後漢末に当る時期であるが、漢にはすでに戸籍があったことから割合正確な人口把握が可能だ。一般に後漢末にはなんと5000万人ほどの人口があったという。

 現在日本の人口は中国のざっと10分の1であるから、漢が5000万人なら弥生の日本には500万人ほどもいたのであろうか?いや、どうもそんなにはいなかったようだ。奈良時代の戸籍からだいたい奈良時代で300~500万人ぐらいである。農業生産力のついていない弥生時代では数十万人(50万前後か)ぐらいの推定が妥当性がありそうである。実際このころの大都市である佐賀の吉野ヶ里遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡でも人口はわずか500人前後と見られているのである。

 さて、人口が数十万人しかいないとして、果して西日本全体で戦争するということが可能であろうか?


2016年9月6日火曜日

邪馬台国 1

 邪馬台国問題は日本の古代史の最大の謎とされている。私は、邪馬台国はもし本当に存在したとしても北部九州の一勢力に過ぎなかったと考えている。だから「最大の謎」とは思えないが、古代史マニアの間では常々いつ果てるかもわからない議論が続いている。

 邪馬台国のことを記録しているのは、三国志の中の「魏志倭人伝」であるが、そこに書かれている邪馬台国連合成立のプロセスは、

「倭国全体が乱れた」→「女王を共立した」→「邪馬台国の女王卑弥呼が倭国の統率者になった」、というものである。

 ここで逆に考えると、邪馬台国が九州か、近畿かによって「倭国全体が乱れた」という内容も変わってくるだろう。九州北部の奴国なども邪馬台国連合に入っているのだから、もし近畿に邪馬台国があれば「乱れた」のは西日本全体ということになる。一方、九州にあったなら九州北部の地域紛争ということとなろう。

 さて、どちらがリアリティがあるか?


2016年9月5日月曜日

神の道 3

神道と稲作は切っても切れない関係と言えるだろう。
いやもっと踏み込んでいえば、「稲作りと神道は一体である」とも考えられる。

 伊勢神宮では、毎日天照大神と豊受大神に食事をお供えする儀式(日別朝夕大御饌祭)を含めれば、年間1500回に及ぶ儀式があるという。そして、その儀式の中でも、多くのものが稲作に関わる内容なのである。

主なものを取り上げると:

1月11日 一月十一日御餞
神々が年に一度天照大神と御饌(みけ)を共にする。


2月17日~23日 祈年祭
「としごいのまつり」とも言い、春の耕作始めの時期にあたり、五穀の豊穣をお祈りする。

4月上旬~ 神田下種祭
御料米の忌種(ゆだね)を神田に蒔くお祭り

5月14日 風白祭
天候が順調で、五穀の稔りが、豊かであるようにお祈りする。

6月15日~25日 月次祭
皇室の弥栄、五穀の豊穣、国家の隆昌、並びに国民の平安を祈願する。

6月24日 伊雑宮
御田植祭 伊勢神宮の別宮の神田で行われる田植えのお祭り

9月上旬 抜穂祭
御料米の初穂を抜き奉るお祭り

10月15日~25日 神誉祭
の実りに感謝し、皇室の弥栄、五穀の豊穣、国家の隆昌、並びに国民の平安を祈願する、伊勢神宮で最も重要な儀式。

11月23日~29日 新嘗祭
宮中で新嘗祭が行われる際、神宮では天皇陛下の幣帛を奉る奉幣の儀を行う。

12月15日~25日 月次祭
6月の月次際に順じます。


 すなわち、伊勢神宮の年間行事は、稲作のスケジュール管理表そのものと言っても過言ではないのである。

 「神道と米作りがセットになって大和の国によって広められた」という私の仮説は、至極当然のことを述べているだけなのかもしれない。

 (写真は伊勢市ホームページより)


2016年8月30日火曜日

神武天皇 3

神武天皇はどのような人物であったか?

 日本書紀では日向の地で4人兄弟の4番目であった。45歳の時「この地は西に偏りすぎている」と判断し、「青山周る国の最中、美しい地」としての大和を目指して東征の途に出た、と記している。

 これがBC667年となっているわけだが、「春秋2倍歴仮説」によると、BC44年に修正され、45歳も23歳に置き換えられることになる。
すると、この話は弥生中期のこととなるわけだが、私の見方は、これがそのまま史実であったと考えている。

 史実であれば、ストーリーは考古学で実証されていることと矛盾してはならない。
では、宮崎の地は弥生時代どのような情勢にあったか?

 宮崎には弥生遺跡は少なく、北部九州とは様相を異にしている。稲作が始まったのは北部九州ということもあり、加えて山に囲まれて自然災害の少ない北部九州に比べ、ふきっさらしで台風の害が大きく、かつ地味がやせていることが原因であろう。

 すなわちそんな悪い条件の土地が、神武天皇の故地であった。
そんな地を見限って、より良い土地を求めて旅立った23歳の若者がのちに大をなしたのである。

 そのスタートはまことにささやかなものであった。

2016年8月26日金曜日

神武天皇 2

 『よみがえる神武天皇』では日本書紀が伝える「神武東征」のルートとプロセスに私が年代修正を行って考古学の成果を取り入れ実像を再現しています。

これを要約すると狭野の尊(神武天皇)は、

- BC44年 日向を発つ。
- 次年、筑紫、安芸を経て吉備に至る。
- 吉備で3年間兵を集め、武器と船を整える。
- BC40年 吉備を発ち、河内に至り生駒でナガスネヒコに撃退される。
- 紀伊半島を迂回して伊勢に上陸、山中を難行のあと宇陀を平定。
- ナガスネヒコとの決戦に勝利して大和平定。
- BC37年 初代天皇に即位。

ということになる。

 日向を出たときは東征軍は数十人規模であり、吉備で軍勢を整えて数百人となったと想定している。
 このプロセスを改めて振返ると、これが情報の乏しい時代に、手探りで進みながら極めて着実で優れたプロセス管理がされていることに気付く。加えて、所々で幸運にも恵まれている。逆にいえば、あまりに出来すぎているのである。
この点を突いて、「この説話は後世の作文」という批判もあり得ると思う。(あまりこういう指摘はないが)

 しかし、考えてみれば、スタート段階では神武天皇もまた数限りないチャレンジャーの一人であったのである。その中で最大の成功者となったのが彼である。
甲子園の高校野球大会の勝者は一校だが、その陰には何千もの優勝できなかった学校がある。

 「神武東征」が出来すぎている、との印象を与えるのは、甲子園優勝校の足跡を逆にたどった時、それは必然と幸運がいくつも重なったものであるとの印象を受けることと同じであろう。

2016年8月24日水曜日

読者からのお便り

 『よみがえる神武天皇」を出版してから何通か読者から手紙をいただきました。ありがたいことでございます。おおむね好意的な内容の方が多く、励まされます。中に結構突っ込んだ質問もいただきましたので、ご紹介いたしましょう。

 Mさんは定年退職後、古代史に興味を持たれたとのことで、私の本で「すっきりした」と言って頂きました。質問としてはやはり2倍暦の考え方を持っておられる長浜浩明さんの見方との違いをおたずねです。

 具体的には、

①神武即位がBC37年は河内潟の時代と少しずれがあるのではないか。
②大和の国による邪馬台国の併合AD277年は台与の朝貢の266年に比べ近すぎないか。

との2点です。これに対しての私のお答えは、

①については、基礎資料の「大阪平野の生い立ち」(梶山・市原)で河内潟は2000-3000年前、そのあとの河内湖Ⅰは1800-1600年前(1972年の資料)としていることから、両者に200年の余地を持っているので、大丈夫でしょう。

②については仮にもっと併合が後なら、「事大主義」の台与はさらに朝貢を重ねたでしょう。また、長浜さんの2倍暦修正は、仁徳紀を古事記の没年齢を優先して18年とされています。私の見方では、年齢記録より在位記録の方が正式で正確であろうと考えていますから、日本書紀に従い2倍修正だけして仁徳紀は44年と見ています。

といたしました。

 全てのご質問に答えられるかわかりませんが、これからも興味深いご質問にはなるべくお答えするつもりです。よろしくお願いいたします。

2016年8月23日火曜日

神の道 2

拙著「よみがえる神武天皇」では、大和の国が大和盆地から日本全体へ勢力を拡大したのは、「稲作と神道」がセットになった「大和国システム」の力によるものとの仮説を立てた。

 この本を書いている段階で、神道と米作りについては相当関係が強いだろうなというややボンヤリした見通しを持って取り組んでいたのであるが、もっと神道を知らねばならないとの思いは持っていた。
 最近ちょっとしたご縁から神道の真ん中にいるような方と知り合いになることができ、話をうかがっている。

 そのお話を聞いて、改めて驚いたが、神道と稲作は関係がある、というようなものではなく、ほとんど一体となったものであるようだ。
 
 新嘗(にいなめ)祭はよく知られているが、実は毎月の月例祭、あるいは毎日の儀式も基本は同じで、神に稲を始めとする五穀を進め、自らもこれを食するのである。神道=稲作と一体のものと考えてもいいぐらいの関係なのである。

2016年8月21日日曜日

神武天皇 1


 拙著『よみがえる神武天皇』では、新しい神武天皇像を提示した。
彼は23歳で故郷、日向をわずかな仲間と共に出発し、東征プロジェクトを着実に進めた。大和盆地に入るところで様々な艱難も味わうが、それらを乗り越え、7年後に大和橿原の地で初代天皇に即位する。

 池上彰さんは参議院の選挙特番で三原じゅん子さんに、「神武天皇は架空の人物と教科書でもされていますよ」と迫っていたが、これは池上さんの現状認識が誤っている。現状は「教科書のどこを見ても神武天皇は出てきませんよ」というのが正しい情報だ。(実はもっと若い)→

 池上さんが育った時代はまさに、教科書から古代の天皇を悪しき権力者として追放する運動が盛んで、家永三郎さんなどは延々と政府と「教科書裁判」を闘っている。

 しかし、現在の歴史関係の人で「神武天皇は架空の人物」と言い切る人は少ないように思う。
「神武天皇的な人は大勢いた」とか「倭国大乱の原因」とか「邪馬台国東遷が神武伝承となった」とか、様々な説の要素として「神武天皇」を取り込む人が多い。だがやはり、個人としての神武天皇がいたか?となるとあまりみなさん肯定的ではないのだ。

 大勢の人が我こそは「神武天皇」になろうとしてチャレンジした、というのは私もそう思う。しかし、そんな人々の活動を後世の人が一人の英雄に仮託して物語を作った、というもっともらしい話には乗る気がしない。(ヤマトタケル、神功皇后でも同じような説明がされる)

 戦争直後に浜松で本田技術研究所という町工場が立ち上がった。今日、なお二輪車製造世界一のホンダ技研の前身である。最初、進駐軍放出の小エンジンを自転車に括り付けたような「原付」を製造していた。

 それが発展して今日のホンダ技研になったわけだが、実は戦争直後、浜松には同様の会社が雨後のタケノコのようにできて200数社もあったのである。他のそんな会社がその後どうなったか、今となってはほとんどわからない。だがホンダ技研についてはだれでも知っているし、社史かWikipediaでも開けば会社の歴史も詳しくわかる。なぜか?生き残って世界的な大会社になったからである。

 本田宗一郎さんは若き日の様々な苦労話を機会あるごとに話されている。だからそんな記録も残っている。神武天皇の記録が残っているのも、彼が勝ち残った上に彼の建てた大和の国が後世大発展したからである。彼も若き日の苦労話を機会あるごとに話したことであろう。

2016年8月20日土曜日

新しいスタートの日かもしれない



 日本中がオリンピックのメダルラッシュにわいているが、今日の400mリレーの銀メダルは、なんとも格別だ。大いに祝いたい。

 誰も9秒台の記録がなく、100m決勝に残れなかった4人がチームワークで2位に入った。いかにも日本らしい力の出し方だ。しかもトップがジャマイカで、3位アメリカ(結局失格)を抑えての2位である。

  カールルイスはスーパースターだったが、ぞのずっと前からアメリカは陸上王国で、私の若いころは大人と子供のような印象、とても短距離で勝つなど想像もできなかった。「勝てるわけない」というあきらめも選手にも最初からあったように思う。

 それが今日の選手たちを見ると、実に明るく、プレッシャーをエネルギーに変えてしまっている印象を受けた。それだけの精神力を身に着けてきたのだろう。新しい形の大和魂かもしれない。

 何回か前のオリンピックで、ソフトボールの上野由紀子さんの熱投を見て、彼女にこそ大和魂という言葉がふさわしい、と思った。それに引き換え日本の男は、という気持ちがあったが、今日は新しいスタートの日だという思いを持っている。

2016年8月19日金曜日

神の道

日本の神道とは何であるか?
私にはまだよくわかっていない。
そもそも神道は宗教といえるのか?少なくとも他の代表的な宗教(キリスト教、仏教、イスラム教など)と比べて、「ああしなさい、こうしなさい」というものが何ら発信されてこない。だから日本人は神社に参るけれども、神道を信じているとは思っていないだろう。信じる「教義」がないのである。
しかし、信じていないといいながら「日本人」のすみずみに神道は存在する。むしろ同一ではないかと思える程だ。この日本の神の道をすこし追いかけていきたいと思う。

2016年8月18日木曜日

奈良新聞の書評

 拙著、『よみがえる神武天皇』につき、わが故郷の奈良新聞に掲載していただきました。
8月15日付の書評欄です。奈良新聞は地域がら歴史関係に力を入れておられ、HPには考古学のコーナーも設けています。 奈良新聞HP
 
書評では「新しい古代史像を提示する、画期的な書」との、過分のお褒めをいただいています。

 「アカデミックな歴史学への批判がやや感情的になっている」とのご指摘もありがたく、今後の指針とさせていただきます。

 ありがとうございました。


奈良新聞、2016年8月15日(クリックで拡大)

2016年8月17日水曜日

靖国神社

 8月15日(月)に誘われてある会の靖国神社参拝にご一緒した。
終戦記念日に靖国神社に参るのは2度目だが、昇殿参拝は15日は初めてである。
この会は例年この日に参拝しているそうで、時間も拝殿に登っている間に12時を迎えるというちょっと特別なスケジュールである。

 12時前になると、ラジオが流れて全国戦没者追悼式の様子が聞こえてくる。12時の黙祷にあわせて拝殿でも皆で黙とうをささげ、天皇陛下のお言葉をお聞きした。ラジオが終わると相撲甚句の披露があった。
 そのあと、渡り廊下を歩いて本殿に上がり、整列してお祓いを受け、代表者の方が玉ぐしをささげた。この日はいつもより涼しく、静かな印象だったが、厳粛な気分になったひと時である。

 靖国神社にお参りすることは、私も毎年夏に参っているわけでもないし、個人個人の気持ちでやればいいことだと思っている。しかし、国の責任者になっている人たちや過去の戦争にかかわりのあった組織(例えば新聞社)のトップなどは、必ず行くべきであろうと考えている。もちろん公人としてである。
 靖国に祀られている御霊は、皆が見事な戦死を遂げた人ではない。本当は逃げたかったが逃げられなかった人もいただろう。下手な作戦で部下を大勢死なせた指揮官もいただろう。しかし共通していることは、彼らに国が戦えと命じたこと、そして死んだら靖国に祀ると約束したことである。これは厳然たる事実なのだ。その約束を果たさねばならないし、戦争にかかわった組織のトップは過去のその組織の行いに思いを致さねばならない。それが組織を預かる者の務めだと思う。

 こう考えれば、先の戦争を最も強力に推進した朝日新聞などは、少なくとも役員全員が参拝するのが当然である。もちろん、誰が祀られているから行かないとか、公人ではなく、とかいう議論が見当外れであることは明らかだ。また、別の慰霊施設、などという話も本末を忘れている。主役は祀られている御霊であり、御霊と国との約束なのである。

2016年8月6日土曜日

神話のゆりかご

日本神話には宇宙の始まりから男女による命の営み、太陽、月、自然を包括し、人間の世界に至る壮大なドラマが描かれている。こうした神話が後の世に創作された、そのモデルはだれそれだ、といった話がよく聞かれるが、そんな話に真実は宿っていない。こんな神話は人間と自然の、気が遠くなるような長い営みから生まれてきたものである。

日本神話は神武天皇が大和の地に歩を進められた時、彼の心の中に一族の伝えとして既にお持ちになっていたであろう。すなわち、彼の一族の故地はこんな神話を生み出すのにふさわしい風土を持った場所でなければならない。
それはどこだろうか?私の今思っている候補は、宮崎の市街から6㎞ほど西北にある生目の丘のあたりである。(地図の+印のすぐ上)
ここには、九州で最も古い生目古墳群がある。垂仁天皇が270年ごろに九州に6年も滞在されたとき宮崎駅のそばに仮宮を置いたと日本書紀は伝えるが、その時この丘の周りの水田を開発したと私は考えている。古墳はその時の記念碑である。

垂仁天皇は第12代であるが、神武天皇からの口伝でこの辺りが故地であることを伝えられていたのではないだろうか。
ここに挙げた2つのCGはいずれも生目の丘から見た東と西の風景で、日の出、日の入りの様子だ。雄大な海岸線から登る太陽、そして年に2度春と秋にちょうど高千穂の峰に沈む太陽の様子である。この風土から、天孫降臨とツクヨミに象徴される暦の概念が生まれたのであろう。

2016年7月30日土曜日

7月28日の出版説明会での解説の内容

7/28の説明会では「大和の国建国の真実」と題しまして、以下の内容で著書の内容の解説をいたしました。

古代史に関心を持ったきっかけ
⇒高校生の時には神武天皇は架空の人物だと思っていた。しかし、10年ほど前から「本当にそうなのか?」と考えはじめ、自分なりの理解を積み上げてきた。

現在の古代史教育の過ち
⇒戦前の天皇を絶対視する考え方への反発から、左翼思想を土台にした考古学と中国史書だけに基づく「土器と墓と卑弥呼」の歴史を教えている。その「ヤマト王権」像は顔がなく、前方後円墳が主役のなんとも不気味な政体だ。

日本書紀と古事記の関係
⇒なぜ古代の史書として古事記と日本書紀の2冊が存在するのか?についての「牧村仮説」を説明した。

日本書紀は信用出来るか?
①古代の天皇の異常な高齢記録と結果としての神武天皇即位が紀元前660年という年代のおかしさ。
②日本に文字がない時代の「伝承」に基づいている。
③「天皇支配を正当化するために捏造された歴史書」というレッテル。

これらによって「日本書紀は信用出来ない」とされている。

ところが、

①「三代の都」として日本書紀が記録している纏向(奈良県桜井市)でこの時代に最も大きい遺跡が発見されている。
②埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣に、地方豪族の系図が残され、一族の始祖を「オオヒコ」としている。これは日本書紀が8代天皇の皇子として記録している人物である。

といった事実がある。
これらを見ると、日本書紀のもとになった「伝承」は実は極めて良質な真実を伝えているのではないか?

「春秋2倍暦仮説」という古代史を解くカギ
⇒日本書紀の年代記述のおかしさを説明する仮説として、古代の日本では1年に2つ(春と秋)年齢を増やしたのでは、という春秋2倍暦仮説がある。この説を前提として日本書紀の年表を修正した「新紀年表」を作成した。この新紀年表の年代記述は、考古学の石野博信先生の纏向遺跡の年代推定などと正確に一致することを説明した。

「神武東征」の時代背景
⇒新紀年表では神武天皇の即位は紀元前37年となって、弥生中期に分類される時代である。この時代は、高地性集落、環濠集落という城塞型の集落が全国に広がった戦争の時代だ。この背景となったのが、この時代の希少な稲作適地をめぐる争いであった、という「牧村仮説」を紹介した。

「神武東征」の実像
⇒この時代、先進地帯の北部九州では稲作による生活の安定から人口爆発がおこった。貴重な稲作適地を求めて東に向かって多くの若者が旅立ったのである。そんな中に、より条件に恵まれない日向の地から、村の友たちと語らって故郷を旅立った若者がいた。東にあるという大和という美しい地を目指して出発したのである。彼は知恵と勇気と計画性、人を集める人望と不屈の魂で大和の地で成功を収めた。
そして後世、この若者は神武天皇と呼ばれることになった。

この素晴らしい成功の伝説を子供たちに教えることはたいへん重要である。


纏向三代
⇒神武天皇の建国、と言っても実態は南大和の地方豪族の地位を得たに過ぎない。ではなぜ(出雲でも吉備でも北部九州でもなく)この地方豪族だった大和の国が纏向三代(崇神、垂仁、景行天皇の時代)で日本を治めることになったのか?
この、今まで誰も答えていない古代日本史の大問題について、神道と灌漑による米作り大和国システム)を教え広めたことによる、という「牧村仮説」を紹介した。

邪馬台国と大和の国
⇒時間がなく邪馬台国問題は詳しく話せなかった。卑弥呼は九州の地方勢力であること、魏志倭人伝は政治的な目的をもって事実を改ざんしていること、景行天皇が九州親征の最期で、277年に福岡の浮羽に至ったころに邪馬台国は大和の国の傘下に入ったであろうことをお話しした。

仁徳天皇の実像
⇒仁徳天皇のエピソードも最近は若者に伝えられていない。古来、有名なエピソードとして民のかまどがある。仁徳天皇が民衆の住まいから炊事の煙が出ていないのを慨嘆して課税を3年間停止したという逸話である。一方、世界一の墓陵である仁徳天皇陵の主としても知られているが、この両者には大きなギャップがある。巨大墓陵は民衆圧迫の象徴とされてきた歴史があるのだ。この大きなギャップを埋め、一人の人間としての仁徳天皇像を描けるだろうか。

ポイントは、
    仁徳天皇は大土木王であり、難波の堀江(大阪の大川)を掘削し。茨田の堤を築いて淀川を征した。これによって大坂自体を作り出し、広大な田畑を生み出した。そしてこの手法で全国で巨大開発を推進、そのモニュメントが全国の中期の巨大古墳である。
    高句麗の好太王の南進政策に対抗して応神天皇以来の直轄領である任那、属国の新羅、保護国の百済を指示、支援して韓半島で激闘を演じ、好太王の巨大な圧力を何とかしのぎ切った。

    仁徳天皇陵は周りの状況から見ても古代の巨大なため池であり、ダムである。仁徳帝は死してなお、民衆の田に水を送り続けたのである。

このようなスケールの大きな「おおきみ」を過去に持つことができたことを我々は誇りに思おうではないか、と結んだ。



2016年7月29日金曜日

「よみがえる神武天皇」出版説明会を開催しました。

7月28日(木)文京シビックホールにて「よみがえる神武天皇」出版説明会を開催しました。
多数のご来場をいただき、誠にありがとうございました。
牧村による本の内容説明と、立食による懇親会を行いました。
講演内容については要約をアップする予定です。 ⇒ 要約のページ

説明会場
プレゼン資料表紙

講演ダイジェスト(約20分)


奈良県立畝傍高等学校のかわいい後輩(?)の高市早苗総務大臣から祝電をいただきました。
考古学の巨人、石野信博先生からお祝いの手紙をいただきました。
竹本和美さんがさっそくFacebookで紹介してくれました。 ⇒ FBページ
ありがとうございました。

2016年7月25日月曜日

纏向遺跡の発掘につき

先日、考古学会の巨人、石野信博先生と久しぶりにお話する機会があった。
先生は、畿内説の大家、小生は九州説の書生だが、実にフランクにお話してくださる。人間の幅が広いのである。

様々、話をさせていただいたが、纏向遺跡の発掘の話になって驚いたことがある。
この大和の国揺籃の地、いわば日本国の聖地というべき遺跡の発掘に予算がほとんどついていないのだという。
一般の寄付を募って細々と発掘が続けられているのだそうだ。

片や佐賀の吉野ヶ里遺跡は、全面発掘して建物が100ほども再現されている。
なぜか国交省の予算が入っているらしい。

一体文化行政はどうなっているのだろうか?

2016年7月21日木曜日

出版説明会への参加お申込みについて

7月28日(木)P.M.6:30から「よみがえる神武天皇」の出版説明会を開催します。
関心のある方はどなたでも参加可能です。
お申し込みは安斉(anzai@t-arts.co.jp)、または牧村(takeshi.makimura@gmail.com)まで。

2016年7月19日火曜日

「よみがえる神武天皇」出版説明会のご案内



友人が以下の説明会を企画してくれました。心より感謝しております。
これまでご面識のない方も、ご興味がありましたら是非参加申込みしてください。(牧村)

出版説明会のご案内

 拝啓、すでに盛夏と申せるような暑さが続いておりますが、皆様ご健勝のことと存じます。

 さて、この度牧村健志氏が「よみがえる神武天皇」を出版されました。突然の事にて驚かれた方も多かったと思います。つきましては、ご本人に、本の内容のあらましを説明していただき、出版の経緯も聞く機会を設けたいと存じ、以下の説明会を企画しました。
 ご多忙中、まことに恐縮ですが、お繰り合わせの上、ご参加いただければ幸いでございます。
 なにとぞよろしくお願いいたします。  敬具

                            平成28年7月
                            発起人 西村 大志郎


             「よみがえる神武天皇」出版説明会

 日時 728日(木)午後630 開始(615開場)
 場所 文京シビックセンター26階 スカイホール
 内容 講演 「大和の国の建国の真実」

    ・二倍暦と神武天皇建国の実際
    ・纒向時代の大和の国の全国への発展
    ・大和の国と卑弥呼の関係
    ・仁徳天皇の大いなる実像        
           

これらのテーマを牧村健志氏に1時間30分話していただきます。(入場は無料です)
そのあと、8:30から9時過ぎまで立食による簡単な懇親会を行います。
(参加自由、会費2000円)
お友達、歴史に興味のある方などお誘いあわせてご参加ください。
お問い合わせ、お申し込みは安斉まで。 (anzai@t-arts.co.jp


2016年7月1日金曜日

「よみがえる神武天皇」出版のご案内



<ご案内>

 牧村健志です。

 日本人は自らの誇りを取り戻すべき、との主張は戦後70年を経て様々な人々の胸に抱かれていると思います。しかし、敗戦で破壊された国土は復興されましたが、日本人のアイデンティティは残念ながら復興されたとは申せません。

 それは国の原点である建国の歴史について、人々がどんな認識を持つようになっているかを見てみると明らかです。現在の歴史教育は、左派系の教条主義をベースにして1950~80年ごろに構築された歴史観を無批判に伝承しています。それはベルリンの壁崩壊以前の前世紀の遺物と申すべきものでしょう。 

 そこでは、魏志倭人伝を中心としてシナ史書に至上の価値を置き、古事記、日本書紀についてはこれを低しと見ております。しかし、本当にそうなのか?日本書紀は本当に左翼系の歴史学者がかつて声高に唱えたような「天皇家の支配を正当化するためにねつ造された史書」なのでしょうか?

そんな疑問からもう一度日本書紀を根本から見直してみました。その中で見えてきた「大和の国建国の真実」についてまとめたのが、今回PHP研究所から発行することになった「よみがえる神武天皇」です。

本書が日本人の誇りを取り戻す一助となれば、これに勝る喜びはありません。




よみがえる神武天皇
―日本書紀の暗号を読み解く―



牧村 健志 著
PHP研究所発行
定価 2,500円(税別)

序 章 「土器と墓と卑弥呼」の古代史を見直せ
  ─政治思想で偏向された古代史教育
 今日の古代史教育は戦後の左傾史観をそのまま固定化した「前世紀の遺物」である。

第1章 日本書紀の年表は真実を伝えている
  ─「春秋2倍暦」仮説による古代史の再構築
日本書紀が伝える年代記述は一見荒唐無稽である。ところが「春秋2倍暦仮説」による修正を加えて作成した「新紀年表」では年代の配置が一挙に合理性を回復する

第2章 神武東征は志ある青年のサクセスストーリー
  ─狭野の尊は弥生社会の申し子
弥生時代には農地を求めて西から東へと向かう人々の大きな流れがあった。そこで最大の成功者となったのが、後世、神武天皇と呼ばれる大志ある青年である。

第3章 土木・灌漑技術と神道で日本を統一した大和の国
  ─(まき)(むく)遺跡の発掘で証明された日本書紀の正確さ
 日本書紀は大和の国が纏向に都を営んだ、と伝える。その纏向で、この時代の他に例を見ない遺構が発見されている。日本書紀と考古学の成果を合わせてみると「なぜ大和の国が日本を統一できたか?」という日本史上の大きな謎を読み解くことができる。

第4章 九州の邪馬台国は大和の国に吸収された
  ─300年の論争に終止符を打つ
魏志倭人伝を客観的に読み、さらに作者の政治的意図を読み解けば、邪馬台国が北部九州の一地方勢力に過ぎないことは明らかである。事大主義と迷信に淫した邪馬台国は、270年代に自主独立路線の大和の国に平和裏に吸収されたと考えられる。

第5章 みずほの国をつくった「土木大王」仁徳天皇
  ─仁徳天皇陵は古代の巨大ダムである
 世界最大の墓陵である仁徳天皇陵は「民衆圧迫の象徴」ではない。それは民を潤す古代の巨大ダムである。仁徳天皇は大土木工事を進めて国中で水田開発を行った。さらに新羅、百済を保護国とし高句麗の武闘王、好太王談徳と韓半島で大いくさを交える。

付 章 日本建国の道しるべとしての日本書紀
  ─語り部たちが命を懸けて伝えた物語
今日、日本書紀を読んだ事のある人は稀である。概観のため要約を付章に記した。


巻末:新紀年表(春秋2倍暦仮説に基づいて日本書紀の編年を見直した年表)